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鞆大可島城と村上亮康(2)
南北朝時代が終わり、世の中が安定すると、大可島はしばらく歴史の表舞台から消える。
城跡に残る中世の五輪塔
室町幕府は、鞆に安国寺を置き、この地を準直轄領としたためだ。今まで室町幕府は、軍事的経済的基盤が薄く、そのため内乱が絶えなかったといわれてきた。この考えは全く誤りではないが、最近では研究も進み、五山禅林の有した膨大な寺領群が幕府の準直轄領としての役割を果たしていたことが明らかとなった(注3)。鞆の安国寺も鞆の浦の三分の一を寺領としていたと言われ、幕府はこの安国寺を拠点として鞆を支配したと考えられる。
国重文安国寺釈迦堂
大可島が、再び歴史の表舞台に登場するのは、下って天文年間(1532〜1555)のことであった。
因島村上吉充画像(因島資料館蔵)
天文13年(1544)7月3日、大内義隆は「備後国安名郡鞆浦内十八貫」の地を因島の村上新蔵人吉充に与えた(注4)。吉充は大可島に弟亮康を置き、以後天正19年(1591)まで、鞆浦は、海賊衆村上氏の支配するところとなった。(続く)
(3)桑山浩然『室町幕府の政治と経済』吉川弘文館2006年
(4)因島村上家文書
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鞆大可島城と村上亮康
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