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鞆大可島城と村上亮康(6)
因島村上氏が大可島在城の根拠とした「大内義隆下文」の「鞆浦内十八貫文地」は、所領の規模としてははなはだ狭小である。「貫文」は貫高制と云って、石高制の前に用いられていた土地の広狭を示す単位で、その土地からの年貢を貨幣価値で表したものである。
城址に建つ円福寺、慶長年間ここに遷された
一般的に田一反に付き五百文が標準とされ、十八貫文は「田」にすると三町六反となる。土地の狭い鞆浦からすると、広い土地のように見えるが、鞆全体を示す貫高とは思えない。大可島と鞆港の一部で、村上亮康は鞆港に出入りする船からの入港料(当時帆別銭とか駄別銭と呼んだ)や、警固料(航行する船の安全を保障する代わりに徴収したお金)を主な収入源としていたと見ていいだろう(注18)。
鞆の名所「百貫島(弁天島)」
海賊衆の中でも、最大の勢力を誇ったのが能島・来島・因島の三島村上氏であった。同氏などは海賊衆の中では別格の存在で、戦国時代には「沖家」と敬称され、陸の大名と対等に近い関係を持った(注19)。
能島村上氏の本拠能島城址
この内、最強の勢力を誇ったのは、惣領家である能島村上氏で、伊予大島と伯方島の間の宮窪瀬戸に浮かぶ能島を本拠として、「海賊大将軍」として瀬戸内海を支配した。
能島村上武吉の次男村上景親(宮窪資料館)
大可島城に拠った村上亮康の本家因島村上氏は、三島村上氏の中では最も大きな島である因島を本拠としたため、山陽側の山名、大内、毛利氏などの陸上の大名との関係が深く、海の武士でありながら、陸上にも大きな所領を持つ国衆としての性格も持っていた(注20)。
村上氏が支配した来島海峡
大可島の村上亮康も、三島村上氏の一翼を担い、鞆沖の備後灘を支配したが、統一政権の誕生によってその支配も幕を閉じることとなった。関白となった豊臣秀吉は、天正十六年(一五八八)「海賊停止令」を発し、村上氏が持っていた海賊としての権益を一切認めない政策をとった。能島の村上武吉はこれに強く抵抗したが、遂には能島を奪われ、毛利氏の元に逃れた。大可島の村上亮康も、天正十九年(一五九一)、鞆を没収され、長門大津郡に移され、海賊としての活動に終止符を打った(注2Ⅰ)。
(18)「萩藩閥閲録」巻六七高須惣左衛門、年不詳七月六日付山名祐豊書状など
(19)宇田川武久『瀬戸内水軍』(歴史新書65、教育社、一九八一)
(20)注18参照
(21)『広島県史』通史編中世
(22)『毛利家八カ国時代分限帳』(マツノ書店刊)によれば天正十九年の「惣国検地」の結果村上亮康は鞆を没収され、長門大津郡に四〇二石余の給地を与えられた。
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鞆大可島城と村上亮康
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