備後山城風土記

備後の山城と武将の紹介ブログです

全体表示

[ リスト ]

福島正則の築いた『鞆城』については、よくわからないことのほうが多い。
イメージ 1
現在の鞆城址、背後の建物は資料館
一応、江戸時代に編纂された地誌は述べている。「慶長の初め、福島正則此所を枝城に拵、麓にありし宮寺を、ここかしこに移し、三重の天守をあけ、大手櫓なとは未普請半なりし時、一国一城の仰せありて俄に天守を下ろし、普請を止めて屋敷を建て、大崎玄蕃という者を置れ…」
 
わからないことのほうが多い福島氏の鞆城だが、現在の地表に残る痕跡から推定すると、その規模は相当広壮なものであったようだ。
イメージ 2
昭和45年頃の古城山、鞆中学校があった
城の中心的な曲輪が現在の市立鞆の浦歴史民俗資料館の建つ丘にあったことは間違いない。ここは明治以降の幾多の変遷によって改変のあとが著しいが、南北の斜面には往時の石垣がのこり、かつて実施された発掘調査によっても、ここに「本丸」「二の丸」が置かれていたことは明らかだ。さらにその北側には百メートル四方の「三の丸」があった。「三の丸」は廃城以後、明治維新まで福山藩の「鞆奉行所」が置かれていた場所で元禄頃の古地図によると、北・西・東は掘に囲まれ、東面のやや北側に出入り口があった。奉行所時代の門は鞆城の大手門をそのまま使用したようで、総塗り込め、瓦葺、二階建ての広壮な建物であったことが分かる。
イメージ 3
元禄古図、右手の松が生えているところが城址
さらに、正則の築いた鞆城は資料館の建つ丘から南と東南に広がっていた。南は現在の県道あたりに石垣が発掘されており、城の南面は当時の海岸線に面していたことが推定される。また、東南、現在の福禅寺の境内まで城域が伸びていたようで、境内西側には鞆城の遺構と考えられる刻印の刻まれた石垣が残っている。
 
これは正に巨大な「海の城塞」だ。正則の築いた鞆城がいかに巨大な城塞であったかは、同時代の証言が残っている。一つは慶長十二年(一六〇七)に来日した第一回朝鮮通信使の記録『海槎録』である。この時の通信使は、後のような親善を目的としたものではなく、敵国に対する偵察の使命が課せられ、同書も使節の見た日本報告といったほうが良い。鞆を訪れた通信使の一行は正則の鞆城の規模に驚嘆した。「岩の上に石城を築いている、将来は防備のとりでにするようだ…」
 
ここで注目したいのは、慶長十二年になっても鞆城が「築城」中であったということだ。正則が鞆城の築城に取りかかったのは慶長六年か七年と考えられているから、五年たってもまだ完成していない。その規模を察することができよう。

閉じる コメント(2)

訪問ありがとうございます
鞆城は大きな城だったんですね。大可島城も改築したとか。西には大竹に亀居城これも大きな城です。 幕府から警戒されるわけです。

2011/10/12(水) 午後 4:31 安芸Z

顔アイコン

書き込みありがとうございます。
亀居城も大きいですね。ただし、石垣の補修が下手ですね

2011/10/12(水) 午後 5:10 [ ゆの屋又三郎 ]


.

ブログバナー

ゆの屋又三郎
ゆの屋又三郎
男性 / AB型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(7)
  • roba
  • YAMATETSU
  • 備陽史探訪の会
  • 胡 備後守
  • mts100
  • ktgwkuj
友だち一覧
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事