備後山城風土記

備後の山城と武将の紹介ブログです

備後の応仁の乱

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備後の応仁の乱

大乱の勃発
応仁元年(1467)1月、京都は続々と上洛する諸国の軍勢で不気味な緊張に覆われていた。幕府を二分する実力者、細川勝元・山名宗全は、いよいよ実力行使の決意を固め、味方の諸大名に動員令を発したのだ。戦端は、両陣営の支援を受けた畠山政長と同義就の間で開かれた。同年1月18日の御霊森合戦である。しかし、この時点では細川方は動かず、戦いは山名方の支援を受けた畠山義就の勝利となった。本格的な衝突は、同年5月24四日、細川方の一色義直邸攻撃によって始まった。西軍山名宗全の激に応じた大名は政豊・政清・教之を初めとする山名一族、新管領斯波義廉、河内守護畠山義就、能登守護畠山義統、丹後守護一色義直以下、赤松・土岐・富樫氏等大名30余人、都合11万人。対する東軍細川勝元方には、成之・成春・政有を初めとする細川一族、斯波義敏、近江・出雲・飛騨守護京極持清、若狭守護武田国信、そして、山名一族の中でただ一人勝元の召しに応じた山名是豊等、総勢16万余人(応仁記)。以後両者は、京都、否全国を舞台として、文明9年まで11年にわたって死力を尽くして戦った。
備後国人衆の分裂
守護の山名氏が分裂したため、備後の国人衆は大乱の当初より、前守護宗全に味方する者と、現守護是豊に従う者の二つに別れて、互いに争った。東軍山名是豊に味方した者は、守護所尾道周辺の国人衆、木梨庄や高須の杉原氏一族や沼隈郡草戸の渡辺氏等ごく一部で宮氏を始め、備北の山内首藤氏、三吉氏、和智・江田の広沢一族等、殆どの国人衆は西軍山名宗全の下知に従った。
 
 両者対立の構図は、一般に、「内郡衆」と「外郡衆」という、備後山間部(内郡)の国人衆と、沿岸部(外郡)の国人衆の対立抗争という図式で描かれることが多い(「福山市史」上巻等)。しかし、有力国人衆の殆どが西軍山名宗全に味方した事は別の説明が必要だ。結論を先に述べると、備後に於ける「応仁の乱」は、守護に対する国人の反抗という構図で戦われた。有力国人衆の内、杉原氏一族のみが東軍方として行動している、これは同氏の本拠が守護所尾道に近接しており、是豊との結び付きが特に強かった為だ。また、草戸の渡辺氏は、この時期まだ土豪(有力名主)の範噂を出ておらず、守護の土豪に対する被官化の一例として捉えることができる。
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 室町期の守護と国人の関係は、緊張関係をはんでいた。守護は職権によって国人衆の被官化を押し進めていったが、順調ではなかった。守護の領国支配の為には国人の被官化が必要であったが、国人の側では必ずしも必要はなかった。特に有力国人は、その領域支配に守護の力を必要とせず、却って守護の支配と対立することが多かった。そのため彼らの中には「奉公衆」として直接将軍と結びつき、守護から独立の姿勢を示す者もいた。西軍に味方した宮氏や三吉氏がその代表だ。守護山名氏の分裂は、有力国人衆に、守護に対する反抗の絶好の口実を与えた。前守護山名宗全の命を奉じることによって、堂々と現任の守護である山名是豊と戦う事ができたのだ。

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