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今日、ネットで注文していた中折れ帽子が届きました。古いものだそうですが、内側に「FUR FELT HAT」「AMERICAN MANUFACTURE」「HENRY」とあります。いつ頃の何処の製品でしょうか?ご存知の方教えてください。
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2011年09月21日
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「その風俗は淫らではない。…婦人は髪をゆってうしろで結んでいる。衣服は一枚の布で、真ん中に穴を開け、頭から被っている。…」
これは、今から一七〇〇年ほど前の中国の史書「三国志」魏書東夷伝倭人の条(通称魏志倭人伝)の一節です。
現在のようにシャンプーもなく、石鹸もなかったはずですが、私はこの記述を読むと、なぜかあの簡素な弥生式土器のような、清楚な女性を想像してしまいます。
大和撫子は、二千年前から変わらないのでしょうか。
しかし、気になる記述もあります。
「その俗は、身分のあるものは五、六人、庶民でも二、三人の妻をもっている。婦人は淫らでなく、嫉妬もしない…」
これはどうしたことでしょうか。当時の男性はアラビアの王様のようにハーレムを持っていたのでしょうか。
実は、私たちの遠い先祖は、当時まだ今日のような婚姻制度を持っていなかったのです。
古代のわが国の婚姻制度は、〝妻間婚″と言って、男性が女性の家に通いました。それも制度的なものではなく、女性が拒めば男性は別の女性を見つけなければなりません。生まれた子供は女性が育てましたから、当時の中国人から見れば、一人の男性がたくさんの妻を持っているように見えたのです。
このように『倭人伝』は、弥生時代の風俗を知る貴重な史料となっています。そして、政治的にも女性が王様であったという驚くべき情報を現代にもたらしてくれました。
それが有名な邪馬台国の女王、卑禰呼です。
卑禰呼は 〝よく鬼道を使い、衆を惑わした〃とあります。鬼道とは、神の言葉を伝えたり、占ったりする呪術のことです。つまり、彼女は巨大な権力を持った巫女だったのです。
古代人が好んだ勾玉
とすると、小国の上に立つ倭国王が女性だったわけですから、各地に存在した国々にも卑禰呼のような女性がいた可能性があります。果たしてわが備後にも女王がいたのでしょうか。
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悲運の女性
〜毛利興元の娘の数奇な一生〜
彼女が生まれたのは戦国の嵐が正に吹き荒れようとしていた一六世紀の初頭のことである。
父は安芸の国吉田郡山の城主毛利興元、有名な戦国の武将毛利元就の兄だ。彼女には生まれた時から悲運の影がつきまとっていました。
生まれて間もない永正一三年【1516】八月、父興元は、二四歳の若さで死去し、杖とも柱とも頼む兄幸松丸も、大永三年【1523】七月、わずか九歳で病死してしまうのです。
これから彼女の波乱の人生が始まります。成長した彼女は、毛利家を相続した叔父元就の命ずるまま婚家を転々とすることになるのです。
山内豊通の居城「甲山城跡」
初めに嫁がされたのは、備北に大きな勢力を持つ庄原甲山城主山内豊通の元でしたが、新郎の豊通は間もなく死去し、子がなかった彼女は実家に帰されてしまいます。そして、次に嫁がされた竹原の城主小早川興景も、天文一〇年【1541】三月、安芸銀山城攻めの陣中で病死し、ここでも子供に恵まれなかった彼女は婚家を後にしなければならなかったのです。
しかし、実家に帰っても、温かく迎えてくれる父や兄はいません。叔父元就の政略の道具として各地の豪族の元を転々する他、彼女の生きる術は無かったのです。そして、最後に嫁がされたのが備後神辺の城主として有名な、杉原盛重の元でした。
杉原盛重の居城神辺城址
こう書くと、彼女は謀将元就の「手ゴマ」の一つとして、ただ運命を甘受するだけの悲運の女性のように見えますが、彼女の足跡を子細にたどると、別な一面も浮かんできます。彼女が乗り込んで行った豪族は、その後一様に毛利家の有力な味方になっているのです。 最初の嫁ぎ先山内氏はお陰で毛利のライバル尼子氏に攻められていますし、杉原盛重は無二の忠誠を毛利氏に捧げました。また、小早川興景の跡は、元就の三男隆景が継ぎますが、それも彼女が居たからこそでしょう。
いわば彼女は毛利家の「女性外交官」としての役割も担っていたのです。 |
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