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第2次改装後の戦艦扶桑、独特のアンバランスな艦橋がたまりませんねえ。
しかし、日本海軍は何故こうまでして旧式で不完全な戦艦の存続にこだわったのでしょうか?
廃艦にして新たに建造するとか、砲塔を1つとって馬力を倍増して高速戦艦に改造するという方法があったと思うのですが。
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2011年09月24日
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福山の干拓
「開発」というと、現代の我々は「自然破壊」「環境破壊」などマイナスなイメージを思い浮かべる。山を崩し、海を埋め、工場や住宅地を造成する…。
ところが、過去にさかのぼると、環境をあまり変えない「開発」の時代もあった。
たとえば、江戸時代から明治時代に盛んに行われた干拓だ。
今からは想像もつかないことだが、現在の福山の市街地の半分以上は、江戸時代の干拓地である。
元和五 (1619)年八月、備後一〇万石の大名となった水野勝成が備後鞆の津に上陸したとき、福山市街地のほとんどは海面下にあった。
福山城の天守閣に登ると、海ははるか南に白く輝いているだけだが、当時は城の南約一キロの、今の野上の交番から東警察署を結んだ線上に海岸線があって、箕島ははるか沖に浮かぶ島であった。
東も引野・蔵王・深津・手城辺りは海の底で、深津高地は南に突き出た岬であった。
これらの市街地が現在の姿になったのは、江戸時代になってから営々と行われた、干拓事業による。
「干拓」は海を陸地にする、という意味からは自然破壊に違いない。が、その手法は現代の「開発」とは全く違うものだった。
現代の「開発」が自然を人工の力で無理に押さえ込むのと異なり、江戸時代の干拓は、自然を上手く利用して行われた。
まず、それが寒冷な気候を利用して行われたことに注目したい。福山の干拓事業は江戸時代の前期と末期に集中して行われたが、それは平均気温の下降によって「海退」現象が起こったからだ。
寒い時代には、極地や大陸の氷河が増え、海面が下降する。干拓は潮の干満を利用して行われるから、海面が下がればそれだけ干拓しやすくなるわけだ。
また、寒冷な時代は農作物が不作で「一揆」が起こることもあったが、干拓事業に動員された農民は無償労働では無く手当てが支給されたから、今で言う景気振興策にもなった。
草深の唐樋門、今の残る江戸時代の樋門である
干拓事業自体もきわめて環境に優しいものであった。堤防で浅い海を囲み、樋門を設け、大潮の干潮時に樋門を閉じると、自然に陸地となる。
多治米・川口・新涯(曙)・手城・蔵王などの干拓はこうして実施された。
あとは干潮時に排水するのみで、他所からは一切埋土を持ってきていない。はじめ海底であった土地は、排水を繰り返すことによって豊かな農地となった。
かつての先人は自然の法則を知って、それを上手く利用して環境を整えてきた。それは手間隙のかかることではあったが、現代の我々にとって学ぶべきことも多いようである
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