備後山城風土記

備後の山城と武将の紹介ブログです

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備後イソップ物語

 戦国時代の初め、毛利元就が登場した頃、備後で最も力のあった国人は宮氏であった。
 宮氏は、平安時代の中頃に関白となった、小野宮【藤原】実頼の子孫と称し、「小野宮」を略して「宮」を名乗ったと伝えている。備後に土着した時期は不明だがですが、南北朝時代の初めには、備北奴可郡(庄原市東城町・西城町)を本拠に、備南にかけても相当な勢力を持っていたようで、宮下野守兼信入道道仙は足利尊氏・義詮父子に味方して手柄を立て、備中国の守護職に任命されている。
 隣国の安芸で元就が頭角を現した頃、宮一族で最強の勢力を誇っていたのは、「宮城」に拠る宮下野入道であった。下野入道は「備後国主」を自称し、元就が大内氏に味方したのに対して、大内氏のライバル尼子氏に従っていた。備後に野心を持つ元就にとって、いずれは対決しなければならない相手であった。
 その機会は以外に早くやってきた。
 天文年間【一五三二〜五四】の初め、尼子氏に内紛が起こり、宮氏を支援する余力がないのを見た大内氏は、さっそく元就に宮城の攻略を命じたのだ。
 天文三【一五三四】年二月上旬、二千の兵を率いた毛利元就は吉田郡山城を出陣し、宮氏討伐の征途についた。
 対する宮下野入道も自信満々で元就を迎え撃った。ある本によると、元就の出陣を知った入道は、「わしを討ち取ろうとは笑止千万、返り討ちにして、吉田まで攻め入ってやる」と豪語したと言う。
 しかし、天は元就に味方した。毛利勢を迎え撃って善戦したのもつかの間、入道は急病で呆気なく亡くなってしまった。後に残されたのは、幼少の嫡子、若狭守であった。城中の宮一族は、家老の丹下与兵衛を中心として果敢に抗戦を続けたが、その与兵衛が討ち取られると、城方の戦意は急速に衰えた。同年十月、宮一族は遂に城を明け渡して、元就に降伏した。
イメージ 1
          亀寿山城跡に残る柱穴
 合戦の舞台となった宮城については、新市の亀寿山城が当てられている。しかし、確証はなく、宮城を「有地城」と記す記録もあり、市内芦田町下有地の殿奧城跡を宮城とする説もある。

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