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尾上古墳
平成十一年六月十九日付の中国新聞は、驚くべき事実を告げた。加茂町粟根で前方後円墳が発見され、数々の貴重な遺物が発見されたと言うのだ。その日、私はさっそく加茂町の現場を訪ねた。現場では、雨の中ブルドーザーがうなりをあげ、古墳を壊している。これが尾上古墳と私の最初で最後の出会いであった。
破壊される尾上古墳 尾上古墳の調査は、福山市教育委員会の手によって、かろうじて実施された。だが、その全貌をつかむことはできなかった。業者の土採り工事によって、古墳の六割が消滅していたからだ。
狭い範囲の調査ながら、成果は予想以上のものだった。墳丘は推定全長六〇メートルで、三段に築造され、それぞれの段には埴輪がめぐり、斜面には葺き石が敷き詰められていた。出土した埴輪は、壷形と円筒埴輪の二種類があり、四世紀か或いは三世紀にさかのぼるものと考えられた。石室や石棺は既に破壊されていたが、撹乱された埋土の中からバラバラに割れた虁鳳鏡が発見された。虁鳳鏡(きほうきょう)は大変珍しい銅鏡で、尾上古墳から出土したものは福岡県の沖ノ島遺跡から発見されたものとほぼ同形であった。
残っていた葺石
尾上古墳の発見は、研究者に衝撃をあたえた。今まで、備後南部には潮崎山古墳以後百年間ほど前方後円墳の築造は途絶えると考えられてきた。古墳時代前期から中期にかけて、この地方は吉備の大首長の支配下にあって、在地の首長は「円墳」や「前方後方墳」に甘んじていた、と考えられていたのだ(註①)。
この古墳の発見は、この通説を見事にぶち壊した。潮崎山古墳の被葬者以後も、備後南部には前方後円墳を築くような有力な豪族が存在したことを立証したのである。
尾上古墳の存在が明らかになったことから、福山地方の古代史は書き換えられた。しかし、その「証拠」尾上古墳は、永久に地上から消滅した。あってはならない出来事であった。尾上古墳は「文化財の保護」という観点からも我々に大きな課題を残した。
(註①)最近の学説では、円墳や方墳・前方後円墳を築いた被葬者は前方後円墳を築いた者よりも地位が低かったと考えられている(都出比呂志「前方後円墳体制」)
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2012年01月29日
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