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「新庄」の中心として栄えた、福山市本郷町
“松永の本郷に城跡があるそうじゃけえ、行ってみょうやあ”これがそもそも私と本郷町のなれそめでした。
本郷の中心にそびえる大場山
初冬のある日、国道2号線を白い息を吐きながら自転車で西に向かい、松永の町中から道を北に取り、本郷川の土手に出ると視界が急に開けました。ここが本郷でした。目指す城山は、正面奥、本郷川の西岸に、悠然と聳えていました。
30年以上も経った今でも鮮明に思い出されますが、急な坂道を上った山上には、本丸・二の丸・三の丸と段々に均された平地が百メートル以上続き、崩れ残った石垣がありし日を偲ばせてくれました。
昭和47年に撮影した大場山城跡の石垣
この地に城が築かれるようになったのは本郷がいまだ「新庄」と呼ばれていた鎌倉時代のことです。幕府を開いた源頼朝は全国に守護・地頭を設置しましたが、ここ新庄にも関東から大庭氏が地頭として赴任し、築いたのが本郷の城山、大場山城である、と伝えます。
新庄とは本庄に対する言葉で、各地の例からしますと、開発によって新たに分立した庄園を新設の庄園、すなわち新庄と呼ぶことが多いようです。当地の新庄の場合、どの庄園から別れたものか史料的には判然としませんが、周辺に福田庄や以前に述べた神村庄の名を伝えていますので、そのいずれかでしょう。
古志清左衛門の墓
戦国時代になると本郷の城山には出雲の古志氏の一族が居城し、近隣に勢力を振るいます。中でも最後の城主と伝える古志清左衛門は、毛利旗下の勇将として聞こえ、その落城悲話は、本郷の城山と共に、永く地元の人々に語り伝えられました。
この新庄が「本郷」に替わったのは、近世初頭の事です。有名な太閤検地によって庄園制が廃止されると、各地に近世的な「村」が誕生します。新庄も「西村」「東村」などの村に分けられましたが、この時、旧新庄の中心という意味で名付けられたのが、松永の本郷でした。(田口義之「町名を訪ねて」福山リビング新聞連載より)
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2012年04月13日
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