備後山城風土記

備後の山城と武将の紹介ブログです

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貝塚の残る町、福山市柳津町
 
古く今津と共に、松永湾の港として知られた柳津には、一つの伝説が語り伝えられて来ました。
 
町の背後にそびえる竜王山には、大昔“王(大)人”がいて、向かいの戸崎(尾道市浦崎町)との間を跨いで渡ろうとした。ところが、股を広げ過ぎて“金玉”を落としてしまった。だから、今でもその落ちたところは“こぶかり”といって、松永湾の深みになっている。
 
これは各地に残る巨人伝承の一つですが、柳津の場合、これが有名な神武東征神話と結びついて地名のいわれともなっています。つまり、王人は、神武天皇の家来で、天皇が九州から大和に向かわれた時、家来の王人の住むこの地にも立ち寄られた。そして、天皇の船のとも綱を結んだのが柳の木で、地名もこの故事に因んで名付けられた…。
イメージ 2
貝塚の断面が観察出来る馬取貝塚
 
伝説は別にして、この地が古くから開けた場所であることは間違いないようです。町の東の馬取の丘には、縄文時代の貝塚が残り、広島県の史跡に指定されていますし、竜王山には古代の祭祀遺跡も見られ、弥生土器や古墳時代の土師器が出土しています。
 
また、町の西端には「遍坊地」という字名も見られ、これは中世辺り一帯に存在した“藁江庄”の傍示(ぼうじ)、すなわち、境界を示す地名と考えられます。
 
この地が古代以来、港町として栄えたことは、柳津の鎮守橘神社の伝承にも見られます。この神社は古く「橘の宮」と称され、平安時代、政争に敗れた橘逸成の娘が、各地を漂白の末、この地に父の霊を祭ったことに由来すると伝えます。この伝承なども、この地が古くから“津(港)”として、繁栄を誇って来た一つの証しでしょう。
イメージ 1
馬取貝塚の断面
 
現在、町の沖は埋め立てられ、広々とした道路が沼隈方面に通じています。しかし、一歩旧道に踏み入れは、そこには昔からの町並みが続いています。“やにゃーづ”と聞いて、この一筋の町並みを思い出すのは、私だけでしょうか。(田口義之「町名を訪ねて」福山リビング新聞連載)

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