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平田玉蘊
尾道の生んだ女流画家 女流画家として知られる平田玉蘊【ひらたぎょくおん】は、天明7年【1787】尾道の豪商福岡屋の次女として生まれた。本名は豊という。幼少より絵筆を好み、始め尾道の画家福原五岳に学び、後京都に遊学し丸山応挙門下の八田古秀に師事し、自らも研鑽を重ね、明・清の画法を取り入れるなど晩年まで工夫を怠らなかったと云う。代表作には尾道福善寺本堂の襖絵「雪中松竹梅」、浄土寺玄関の衝立絵等があり、女性には珍しく雄健な筆を揮っている。 玉蘊筆
悲恋の佳人
彼女を有名にしたのは、言うまでもなく頼山陽との交際である。玉蘊が初めて頼山陽と出会ったのは、文化四年【1807】九月の事と言われている。その日竹原の照蓮寺で頼家の法事があり、「一会の花」として招かれたのが、当時既に女流画家として佳名のあった玉蘊であった。二人はたちまち意気投合して深い恋いに落ちた。山陽28歳、玉蘊21歳の時の出来事である。 玉蘊遺愛の蘇鉄
キャリアウーマンのはしり
しかし、二人の恋は永くは続かなかった。文化10年【1813】秋、美濃【現岐阜県】に旅した山陽は、そこで江馬細香という新しい恋人に出会い、玉蘊との仲は急速に冷えていくのである。しかし、山陽と別れて以後も、彼女は絵筆を捨てなかった。それどころか、その技は益々冴え渡るのである。いわば彼女は自らの才能で生涯を過ごしたキャリアウーマンのはしりなのである。 玉蘊の墓(持光寺)
今も残る遺愛の蘇鉄
彼女は生涯独身で過ごし、幕末の安政2年【1855】6月20日に、69歳で無くなったが、その遺愛の蘇鉄2株は今も彼女の眠る尾道持光寺の本堂の前に残っている。(田口義之「備後の歴史と人物」) |
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2012年05月17日
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