備後山城風土記

備後の山城と武将の紹介ブログです

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備後国衆福田氏

備後国衆福田氏
 
 津山市上横野の新龍寺の棟札に「時地頭備後国住福田三郎右衛門尉」とあるのは、備後国人福田盛雅が当時(永禄十二年)津山盆地北部の上横野一帯の領主であったことを意味する。地図で確認すると、盛雅の居城枡形山は、この寺の西北3キロに位置する。
 
 枡形山は、標高642メートル、麓からの比高400メートルに達する峻険な山城だ。小早川隆景の築城と伝えるから、盛雅は、隆景の代官としてこの城に入り、一帯に睨みをきかせたに違いない。
 
 国人は「国衆」ともいう、国司・守護など京下りの支配者に対して、その国地付きの有力者を意味する言葉で、多くは鎌倉時代の地頭・庄官の後裔である。
 
 国人は在地に根付いた権力者だけに、山城だけで無く、多くの史跡を残した。福田氏も同様である。
 
 利鎌山城の本丸から眼下に俯瞰できる福田の八幡神社は福田氏が崇敬したお宮だ。
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 福田の八幡神社は「亀山八幡宮」とも呼ぶ。社伝によると、後花園天皇の寛正元年(1461)春、「四郎」というものが、「吾を祭祀して、汝が姓を竹安と名乗るべし」という八幡神の神託により、「鳶が塚」というところに一社を建てたのが起源と云う。その後、利鎌山城主福田遠江守盛雅がこの神を信仰して祠を亀山に遷し、九尺四面の社殿を造営して「神田」を付し、四郎四世の孫又五郎を神主とした。
 
 また、八幡神社から東北1キロの「福田地」にある「福性院」も福田氏有縁のお寺だ。現福性院の旧跡を「福田寺」という。その名の通り、地名をそのまま寺号とした由緒ある寺である。今は失われた享保十年(1725)銘の銅鐘に、「中世、福田遠江守盛政、武門の擁護を託し、廃址を披く」とあって、この寺が福田氏の菩提寺であったことがわかる(備陽六郡志)。
 
現福性院から北に五百メートルほどの山際に、福田一族の墓石と称されるものが残っている。中世末期の五輪塔で、山城主に相応しい石塔だ。
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 亀山八幡神社を氏神とし、福田寺福性院を氏神とした姿は、在地の権力者「国人」にふさわしい。利鎌山城主福田氏は、西隣、鳥の奥城主有地氏と同じく、備後の国人、国衆と見て間違いない。
 
 中世後半の地域の歴史は、こうした国人たちの興亡によって彩られる。彼らは周囲の国人と勢力争いを繰り広げると共に、領内の開発を進め、神社・仏閣を保護して、地域の支配者に成長した。
 
 戦国時代、美作枡形城主福田三郎右衛門尉盛雅は、間違いなく備後の「国人」であった。では、盛雅はなぜ美作で活躍することになったのか…。有地隆信に滅ぼされたという福田遠江守は盛雅であったのか…。(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載)

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