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曾根田白塚の被葬者
次にこの地域の歴史で問題となるのは、終末期古墳として有名な曾根田白塚古墳の被葬者である。終末期古墳とは、六四五年の、大化の薄葬令の後に築かれた古墳のことで、近畿地方の一部に集中的に存在する以外、地方では大変珍しいものである。大化の薄葬令は、原則的に高塚古墳を築くことを禁じた法令で、以後天皇や皇族、一部の貴族以外古墳を築かなくなる。また、その古墳も以前のものより規模を縮小し、切石で造られた石棺に直接羨道を付けた形式となる。曾根田白塚古墳もこの形式をもった古墳で、年代は七世紀の後半と言われている。
曽根田白塚の石槨
地方に終末期古墳が築かれた理由としては、二つの見方がある。一つは、地方の豪族が朝廷に出仕して大きな功績を立て、古墳の築造を許されたとするもの。もう一つは、皇族や高級官僚が地方に赴任し、任地で没してそこに葬られたとするものである。
同 加工された石の継ぎ目
曾根田白塚古墳の場合は、前者の地方豪族説がふさわしい。町内には石川王を祭った国司神社が存在することから、六七九年に吉備で亡くなった同人の墓とする考えもあるが、備後南部には他に二基の終末期古墳が分布しており、この考えを採ると説明がつかない。在地の豪族で朝廷に出仕して大きな手柄を立て、故郷に錦を飾った人物の墓とするのが妥当であろう。(田口義之「芦田の歴史」より)
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2012年08月24日
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