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2日連続でビヤガーデンで遊んできました。
おかげで2キロも太ってしまいました。
この日はブンタールという珍しい草で織られた帽子にしました。
似合うでしょうか?
細かな網目がとてもきれいなハットで、もったいないのでめったに被りません。
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2012年08月25日
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有地と狩道郷
大化の改新によってスタートした古代律令国家は大宝律令の制定と、平城京の建設によって一応の完成を見る。律令制下の郷土の歴史で常に問題になるのは、現在の地名と『和名抄』郷の関係である。律令制下の地方組織は、国―郡―郷の三段階の行政組織を採っており、その最下層の区分である「郷(里)」の比定が郷土史家の関心の対象になる。芦田郡は、明治になって品治郡と合併して「芦品郡」となった地域であるから、問題はない。問題は、芦田郡内の和名抄郷の何れが町内に存在したかである。
下有地の景観 『和名抄』に記載された芦田郡の郷名は次の通りである。
○ 佐味郷
○ 広谷郷
○ 芦浦郷
○ 都祢(常)郷
○ 芦田郷
○ 駅家郷
この内、広谷、芦浦、都祢郷は現地名に対応するものがあり、問題はない。芦田・駅家郷は、郡の中心地であるから現在の府中市内に存在したことも間違いない。すると、芦田町内に存在した郷としては佐味郷が考えられるが、それよりも品治郡の郷として記録される「狩道郷」を現芦田町内に比定する説が有力である。町内には上下有地の地名が残っており、「有地」が「狩道」に転化したとする(『福山志料』など)。
相方城より望む有地川合流点
妥当な考えである。かりじが「あるじ」に転化したことは大いに考えられることで、町内には、郷の存在を裏付ける後期古墳も分布しており、私もこの考えに賛成である。(田口義之「芦田の歴史」より)
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