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半坂山城と近藤左衛門尉ー広島県福山市草戸町ー
最近、数ヶ月に一度の割合で福山市草戸町の「川西地区」の史跡を訪ねている。
草戸町はここ120年で大きく変貌した。昭和初年まで、芦田川は本庄青木が端で二股に分かれ、その中州に草戸の人々の農地があった。ところが、大正末期からの河川改修工事で芦田川は一本に統合され、中州は河川敷となった。結果、草戸は川の東と西に大きく分かれ、本来の「村」であった川の西側地区は「川西」と呼ばれるようになった。
昨今の歴史ブームで、川西地区の人々も、自分たちの町を見直そう、という機運が起こり、「草戸川西街道」(仮称)という住民グループが立ち上がり、歴史の案内人として私が呼ばれた。ここに足しげく通うことになった理由だ。
草戸川西街道のメンバーと共に
歩いてみると、古くからの土地であるだけに、そこかしこに中世の息吹を見つけることが出来た。何しろ有名な「草戸千軒町遺跡」の隣接地だ。一木一草にも歴史が宿っている感じだ。
中でも、旧街道の探索は興味深いものだった。今は堤防上の県道を車が地響きを立てて通り過ぎるのみだが、古い町並みに入ると、近世以来の古い道路が生活路として今も使われている。
旧道を通ると、今は失われた景観が頭の中によみがえってくる。旧銭取橋(現草戸大橋)を渡った街道は「大鳥越」を越えて半坂の谷に出、更に向かいの谷に入り、長和の志田原から峠の「かんかん石」を越えて旧山田村(熊野町)に通じていた。
中世の山城もこの旧道に沿って点々と残っている。「大鳥越」を見下ろすようにそびえているのが以前紹介した中山城だ。そして、半坂から志田原に向かう旧道が山に入る直前の尾根突端に築かれていたのが半坂山城であった。
今回の探索で、旧道が志田原の山に入る少し西で、半坂山城主であった近藤左衛門尉の墓石を見学することが出来た。確かに中世にさかのぼる石塔で、今まで歴史の闇の中で霞んでいた近藤左衛門尉が急に目の前に現れたような、新鮮な感動を覚えた。
半坂山城は、志田原から北に伸びた丘陵が半坂の谷になだれ込む幾筋かの尾根の一つを利用して築かれた山城であった。
残念ながら、城跡の大部分は土取工事や道路の建設で破壊され、東に一段下がって築かれた曲輪の一部が民家の敷地として残っているのみだ。
昭和20年代に撮影された半坂山城址
城跡の面影は、昭和二十年代に撮影されたと推定される写真によって偲ぶことが出来る。
写真は明王院裏山の通称山岳公園の南端の山頂から撮影したと考えられる白黒写真で、中央やや右手(西より)に在りし日の半坂山城跡が写っている。
東西100㍍余りの小さな丘で、山頂が平らに均され、径40㍍ほどの平坦地となっている。其の左に一段下がって今も民家の建つ平坦地が確認できる、二の曲輪の跡だろう。
半坂山城は、古写真によって往時が確認できる稀有な例だが、城主近藤左衛門尉については、墓石が残っているのみで詳しいことは不明だ。長和庄内で興亡を繰り返した在地武士の一人であったのであろう。詳しい研究はこれからだ。(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載より) |
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2012年08月27日
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有地氏の盛衰
戦国時代、芦田町一帯を本拠に備後国人衆の一人として威を振るったのは、宮氏の一族有地氏である。
宮氏は平安時代の関白藤原実頼の後裔と伝え、旧奴可郡(現在の比婆郡東部)を本拠に南北朝期には備南に進出し、室町時代には「備後殿」と呼ばれ、備後を代表する国人として活躍した。
国竹城址
有地氏は、宮氏の惣領筋の一つ、南北朝時代に備中国の守護職を務めた宮下野入道道仙を始祖とする「宮上野介家」の庶家と伝える(『萩藩閥閲録巻八十三』など)。新市町相方本泉寺の位牌や熊野常国寺の曼荼羅等によると、初代は日蓮宗の熱烈な信者であった宮信定(長門民部左衛門尉)で、以後、石見守清元、刑部少輔隆信、民部少輔元盛と続いた。現在も町域には日蓮宗の信者が多いが、これは有地氏歴代が熱烈な日蓮宗の門徒であったためである。
清元に関する確実な史料はないが、次の隆信の代になると各種の史料に現れる。隆信は早くから安芸の毛利氏に属していたようで、弘治三年二月の毛利元就他十七名連署の起請文には、他の備後国人木梨隆盛(尾道の国人)・古志豊綱(本拠福山市本郷町)・和智誠春(吉舎町南天山城主)等と肩を並べて署名している。隆信、元盛の代は有地氏の全盛期で、伝承では周辺の諸氏を討って領地を拡大し、西は栗柄、東は駅家町の近田まで支配下に置き、天正初年には新市周辺の宮氏の旧領を取り戻し、本拠を相方の城山に移したという(有地殿先祖覚等)。
城址に残る手水鉢
これらの伝承を裏付ける史料は少ないが、有地氏の残した城跡は、同氏の盛衰を如実に物語っている。有地氏初期の本拠と伝える国竹城は、低丘陵上に築かれた館城で本格的な山城とは言えない。しかし、隆信が築いたと伝える大谷・殿奥の両城は近在でまれに見る本格的な戦国山城で、隆信の代に有地氏は飛躍的に勢力を拡大したことが見て取れる。さらに、元盛が天正初年に築城したと伝える相方城は、白壁瓦葺・総石垣造りの山城で、元盛の代になって有地氏の権勢が周辺諸豪族を圧倒したことを示している。
元盛が築いた相方城址
有地氏の移封の理由は明らかでないが、それまでの毛利氏に対する態度が問われたのであろう。ともあれ、こうして有地氏は備後を去っていった。芦田の中世の終焉である。田口義之「芦田の歴史」より
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