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今日の備陽史探訪の会の歴史講演会
他の行事とかち合い、人出が心配されましたが
150用意したレジメが全てなくなり、まあまあでした。
内容は保証の限りではありませんが…
受付の様子です
会場の様子です
開会前のプレゼンの様子です
司会を務めてくださった事務局長さん
講演の様子です
皆様、お疲れ様でした
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乱世の開幕
一乱以後
応仁の大乱は文明9年(1477)、事実上、西軍の主将であった大内政弘の下国によって終わった。
この大乱は社会に大きな影響を与えた。幕府将軍の権威は大きく揺らぎ、将軍の威令が行われたのは山城を中心とした機内近国のみとなった。当時の人々も応仁文明の乱が時代の節目となったことは自覚しており、「一乱以前」「一乱以後」と呼んで区別している。だが、この大乱から「戦国時代」に突入した、とする見解も早急に過ぎる。大乱以後も将軍の権威は生きており、9代義尚、10代義材はそれぞれ近江六角氏討伐の軍勢を催し、曲がりなりにも征夷大将軍の威勢を示した。特に長享元年(1487)、義尚の近江鈎の陣には備後からも山名俊豊をはじめ、宮、三吉、杉原の諸氏が従軍し、将軍の権威が生きていることを世人に示した。
守護山名氏の拠点府中八尾山城址
では、戦国時代の始まりをいつに持ってくるかだが、学会では明応2年(1493)4月の「明応の政変」を戦国時代の開幕とする見解が多勢を占めている。明応の政変とは、幕府管領細川政元が将軍義材(後の義稙)を廃し、代わりに堀越公方家の清晃(義澄)を11代将軍に擁立した事件だ。すなわち、将軍が自らの地位を自分の力で維持できず、管領の「傀儡」となったことを戦国時代の開始とするのである。これを「下剋上」という。以後権力は管領細川氏からその家臣三好氏へと移り、最後はその三好氏も家来の松永弾正によって権力を奪われ、最終的に織田信長の登場によって室町幕府は滅ぶことになる。
山名氏の再分裂
備後の戦国も、中央の政情と深いつながりを持っていた。
兄是豊を追放し、備後守護となった山名政豊も大乱の後始末が終わると上洛し、将軍に忠勤を誓った。
政豊には応仁の乱で仇敵の赤松氏に奪われた播磨、備前、美作3国の奪還という使命が課せられていた。この3国は嘉吉の乱の恩賞として山名氏に与えられたもので、この領国回復をめぐって、備後は争乱の渦に巻き込まれ、戦国の世に突入することとなった。
文明15年(1483)、備・播・作3国奪還を目的に播磨に侵入した政豊は、長享2年(1488)播磨の坂本で赤松氏に大敗し、命からがら本国の但馬に逃げ帰った。家臣の信望を失った政豊は守護の座から引きずりおろされ、替わって子の俊豊が守護となった。これは京都の政情と深く結びついていた。10代将軍義材は、赤松氏に深い同情を寄せ、同氏と犬猿の仲であった政豊を嫌い、父の代理として在京していた俊豊に目をつけ、俊豊を山名氏の家督につけることによって赤松氏を救おうとした。 この企ては山名氏の老臣たちの支持によって成功した。
山名俊豊書状(山内首藤家文書)
おさまらないのは無理やり引退させられた政豊であった。備後の国人衆の中には和智・江田の広沢衆など政豊を支持する者もいた。こうして、備後は再び戦乱の渦に巻き込まれた。戦国備後の始まりであった。(「新びんご物語」あしだ川連載中) |
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