備後山城風土記

備後の山城と武将の紹介ブログです

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山名政豊・俊豊、骨肉の争い
明応の政変
 明応2年(1493)2月、京の都は異常な緊張に包まれていた。畠山義就追討の為に河内に出陣した将軍義材の留守を突いて、管領細川政元が挙兵、義材を廃し堀越公方足利政知の子清晃を擁立、将軍に据えた。第11代将軍足利義澄の誕生である。
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「流れ公方」足利義稙(京都・等持院)
 この政変は各地に大きな影響を与えた。関東で後の北条早雲が伊豆堀越御所を襲撃、足利茶々丸を殺したのはこの政変の余波であったし、備後守護家山名氏が分裂し、備後が戦国時代に突入したのもこの政変が原因であった。当時の備後守護山名俊豊は将軍義材に深く信頼され、その側近として重んじられていたが、その父で無理やり隠居させられていた政豊は管領政元と通じていた。京都の政変によって俊豊は窮地に立たされた。守護代の太田垣氏や備後の和智氏などは政豊に応じ、俊豊に叛旗を翻してそれぞれ国許に帰ってしまったのである。
 
 俊豊は同年3月、わずか60余人となった家臣を引き連れて山名氏の本国である但馬(兵庫県北部)に入国した。但馬には政豊に反感を持った国人衆がいた。俊豊は以後明応5年(1496)まで父政豊と但馬で戦った。明応2年7月の合戦では「山名一家の衆三人討死」(蔭凉軒日録)とあるようにそれは一族同士が戦う骨肉の争いであった。
 
備後の合戦
 政豊・俊豊父子の骨肉の争いは明応5年ころには和議が結ばれ、一応の決着がついたよ。それは但馬は政豊が支配し、俊豊には備後を与えるというもので、備後に入国した俊豊は山内直通を守護代に任じて、支配を開始した。この和談をまとめた立役者は山内直通だったようで、俊豊を備後に迎えた山内氏の権勢は国衆の間で一頭地を抜く存在となった。
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備後山内氏の居城「甲山城址」
 俊豊はこの山内氏の勢力を背景に備後を押さえ、再び但馬に討ち入ろうとしたが、納まらないのは山内氏の下風に立つことになった和智、江田の広沢衆や三吉氏など政豊派の国人衆であった。彼らは政豊及び政豊の跡目ととなった俊豊の弟致豊と通じて挙兵した。両派の合戦は明応6年(1497)から同7年(1498)にかけて備後の各所で行われた。
 
 戦いは明応7年の政豊の死後も姿を変えて続いた。それは守護職の家督をめぐる争いというよりも、山内氏や和智、江田の広沢衆など、備後の国人衆間の抗争であった。両派の抗争は、備後の他の国人衆や安芸の毛利、小早川氏なども巻き込んで延々と続いた。
 合戦は農民たちにとって迷惑なものであった。山内氏が勝てば同氏の代官が在地を実力で占拠し、広沢衆が優勢となれば和智、江田氏の与力被官が村々に押し入り、実力で年貢を徴収しようとした。こうした事態に対して、村人は「惣」を結成して対抗した。浄土寺領櫃田村では惣中が一味神水を酌み交わして武家代官の入部を拒否、寺家の直務を要求した(浄土寺文書)。乱世は国人衆はおろか、農民たちの自立性も高めたのである。(新びんご物語「芦田川」掲載)

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