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青年の父、山本滝之助(2)
彼の生家は、沼隈町の中心からやや東北に入った谷あいに、今も往事そのままの姿を残している。ごく一般の農家の作りで、正面に母屋があり、向かって右手に納屋、周囲は生け垣に囲まれ、簡素な門がしつらえてある。山本滝之助はこの家で維新間もない明治6年【1873】11月15日、孫次郎・サタ夫妻の長男として生まれた。
今も残る滝之助の生家
明治19年、14歳で村の小学校を卒業した彼に最初の試練が訪れる。言わずと知れた「進学問題」だ。向学心に燃える滝之助は熱心に進学を希望する。だが父は許さない。結局彼は郷里に残り戸長役場に就職することとなった。
向上心に燃える青年にとって「田舎」の現実は目を背けたくなるようなものであった。村の青年達は小学校を卒業すると「若連中」と言うグループに入り、喫煙や夜遊び等の悪習に耽り、先の希望のない怠惰な生活を送っているではないか。彼はまずこの現実から逃避を考えた。丁度このころ「戸長役場」が廃止され【明治22年】、失職した滝之助はこれを機会に改めて上京し勉学の志を遂げようとしたのだ。だが孝行息子であった滝之助はどうしても両親を残して上京する決心が付かず断念。同年10月、沼隈郡第十四小学校(現千年小学校)の教師に就任、この現実に立ち向かうこととなった。
滝之助の書
「一歩退いて人を待ち、一歩進んで以って事にあたる」 彼の手段は、まず徹底的に討論することであった。「自分達はこれでいいのか」、『好友会』という青年達のグループを組織した滝之助は、村の若者達と膝詰めで話し合うことから始めた。
身近な問題を話し合う中で、運動は次第に形を整えていった。明治27年には、「若連中」の改善はまず少年からと、尋常小学校の卒業生を中心として「千年村少年会」を結成、同36年には「千年青年会」を組織し、ここに日本青年団運動は滝之助の首唱のもと、沼隈地方で最初の産声をあげたのである。
滝之助の活動は全国に大きな波紋を投げかけた。青年の生活改善、修養を目指して、全国各地で青年団、青年会の結成が相次ぎ、滝之助の運動は大きな盛り上がりを見せ、ついには大日本連合青年団の結成、財団法人日本青年館の建設へと突き進んで行くことになるのだ。滝之助が「青年の父」と呼ばれる所以である。
ただ、彼の運動は当時の国策に利用された面もないとは言えない。大正デモクラシー以後、日本は急速に右傾化し、大陸に帝国主義の矛先を向けていく。青年団運動も昭和に入ると、ご承知の通り軍隊の予備軍的存在と化していった。
だが、滝之助の思想自体は後の軍国主義とは無縁のものである。彼は純粋に農村青年の救済を考えた。それは青年団の活動が一番盛りを見せたのは戦後のことであったことを見ればよくわかる。昭和6年、59歳で亡くなった滝之助は自ら育てた青年達が戦場で散っていくのを見ることはなかった。(田口義之「クローズアップ備陽史」より)
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2012年10月09日
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