備後山城風土記

備後の山城と武将の紹介ブログです

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

江田玄蕃助隆連

天文22年(1553)4月3日、備後・安芸に激震が走った。備後国三谷郡旗返山の城主江田玄蕃助隆連が大内を裏切り、尼子に味方したのだ。
 
当時の文書は云う
「江田玄蕃助隆連事について、雲州一味として去る三日現形…」
 
備北の天地を揺るがせた江田合戦の始まりだ。
 
隆連の居城「旗返山城」は、備後の戦国史で度々大きな歴史の舞台となった山城だ。
イメージ 1
江田氏の居城「旗返山」
 
江田氏は、和智氏と同じ武蔵広沢氏の一族である。
 
鎌倉末期、広沢氏の庶子が兄弟で備後にやって来た。
兄が三谷郡の江田に居館を構えて「江田氏」を称し、弟が和智に住んで和智氏となった。
 
江田・和智の両氏は戦国期になっても同族意識を持ち、時には「両広沢」と呼ばれて威力を振るった。
 
江田氏が三谷郡東南部の三若(三次市三若町)の旗返山に本拠を移したのは室町時代に入ってのことである。
 
城名は同時代史料に既に「江田旗返」と見え、当初からの名前である。本来、旗返には何か由来があったはずだが、今わ失われて不明だ。
 
旗返の名が大きく登場するのは応仁の乱に際してであった。
 
文明七年(1475)夏、備後地方は東西両軍の合戦で坩堝のように沸き立っていた。東軍山名是豊が大軍を率いて備北に攻め込み、西軍方の山内氏の甲山城と江田氏の旗返山を取り囲んだからだ。
イメージ 2
江田氏の端城の一つ「笠城山」
合戦の帰趨は意外なところで決まった。
 
東軍から西軍に寝返った毛利豊元(元就の祖父)が後詰として江田繁ヶ峰に出陣し、旗返山を攻撃中の山名頼忠、小早川の軍勢を切り崩すと、東軍方に動揺が走り、甲山城を攻撃中の是豊軍は総崩れとなって、石見に逃走した。
 
毛利氏はこの功績によって西軍から備後三千貫の所領を与えられ、以後備後の政局に関係を持つことになった。
 
隆連の「現形」は、甲山城主山内隆通の誘いによる、と言われて来たが(陰徳太平記など)、最近新たな古文書(坪内文書)の発見によって、尼子氏が直接働きかけたものであることが分った。
 
旗返山城は毛利氏の本拠吉田郡山城から五里しか離れていない。いわば元就のわき腹に擬せられた刃だ。
 
危機を感じた元就は迅速な反応を見せた。
 
イメージ 3
毛利勢によって全滅した「高杉城址」
 
直ちに出陣した元就は旗返山南方の出城「寄国固屋」を攻略、南方を固めるや、江田氏の北方に勢力を持つ三吉氏を味方に着け、更に泉の「萩ヶ瀬」で南下する尼子軍を撃破、7月23日、隆連の臣祝甲斐守の守る高杉城を攻略、尼子晴久の在陣する甲山城と旗返山の連絡を絶った。
 
こうなると、隆連にはもう施すすべがなかった。隆連は10月まで旗返山に籠城したが、ついにたまりかね城を棄てて、甲山城に逃走、合戦は毛利氏の勝利に終わった。
 
隆連のその後は明らかでないが、こうして鎌倉以来の名門江田氏は滅亡した。
 
元就は恩賞として旗返山城を要求したが、大内氏の実権を握っていた陶晴賢はこれを許さず、腹心の江良房秀を城代として入れた。この晴賢の処置が元就を怒らせ、後の厳島合戦の導火線になったことは余りに有名である。

この記事に

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

全1ページ

[1]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事