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大田貝塚の発見―備後発掘物語(2)―
縄文時代の石器や土器が人々の関心を引くようになったのは、江戸時代後期のことだ。だが、それがどんな人々によって使われたものかはわからなかった。当時の人は、それを天狗や神々の残したものだと考えた。
大田貝塚の標柱
これらの土器や石器が、太古の人々の使った道具だとわかって、考古学の研究対象になったのは明治時代のことである。明治10年(1877)、東大に招聘された米国人モースは、東京大森貝塚を発掘、これらの土器を縄紋(文)土器と命名した。縄文文化の発見だ。
しかし、縄文土器を使用した人々の素性は永らく不明であった。明治時代の人々は、古事記・日本書紀に書かれていたことを疑わず、日本人は高天原から天下った「大和」民族であり、縄文文化を残した人々を異民族だと考えていたからだ。
大田貝塚公園
ここに有名なコロボックル・アイヌ論争が始まる。人類学の坪井正五郎が縄文文化を残したのはアイヌの伝説にある「コロボックル」人だと主張すれば、解剖学の小金井良精は縄文人はアイヌ人だと主張した。
論争は、坪井の死去(1913)によって自然に終息し、アイヌ説が優位にたった。しかし、現アイヌは土器を作らない。京大の清野謙次は、この謎を貝塚から出土する人骨を研究することによって解明しようとした。そして、縄文人がアイヌではなく、日本人の直接の祖先で、現日本人は縄文人が弥生時代以降の渡来人と混血することによって誕生したと主張した。現在の学説の出発点となった清野の『日本原人論』だ。
大田貝塚出土品
(尾道市教育委員会蔵)
清野の収集した縄文人骨は500体に達した。この中に尾道市高須町の大田貝塚から出土した69体が含まれていた。
この地に貝塚遺跡が存在することがわかったのは、大正15年(1926)春のことである。大阪から徒歩で帰省中の九州佐世保考古学会の佐藤真穂は、沼隈郡高須村大田(現尾道市)で田圃に縄文土器の破片や貝殻が広く散布しているのを見つけた。
大田貝塚出土品(同上)
佐藤氏はさっそく地権者の了解を得て発掘を実施した。当時の新聞は報じている、「貝塚の広さは五町歩乃至は六町歩位に及んでいる。そのうち一町歩位は原形のままである、二坪ほどの地域を一尺程掘り下げたところ驚くなかれ純アイヌ式の土器の破片についでやや完全な人骨三体を発見した…」(大正15年4月14日付大阪朝日新聞)
現在広島県の史跡に指定されている大田貝塚の発見だ。(田口義之「新びんご今昔物語」)
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2012年11月15日
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