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窪田次郎と啓蒙所
文久2年(1862)、父亮貞の引退によって故郷に帰った次郎は、明治維新を迎えると、堰を切ったように活動を開始した。そのはじめが小学校の前身として知られる「啓蒙所」の開設運動である。
彼には独特の信念があった。それは人間が人間らしくあるためには、「衛生」「資産」「品性」の三つが必要であるということである。「衛生」とは、現在で言えば「健康」のことである。医師であった次郎は健康の大切さを痛切に感じていた。そして、その獲得には何よりも「資産」つまり、「お金」が必要であると考えた。
窪田次郎肖像
この辺りがこの時期の思想家として彼独自の考えで、医師を出発点とした窪田次郎らしい思想と言える。では「資産」の獲得には何が必要か。「品性」、すなわち「教育」が必要だと、彼は主張する。ここが儒教イデオロギーのみを教育の目的として主張した前代の儒学者と大いに違う点である。
次郎は自らの信念である教育の普及を最初福山藩の藩校である「誠之館」の改革で果たそうとした。しかし、彼の考えは藩当局に容れられなかった。
そこで彼が考え出したのが民間で「啓蒙社」を組織し、その資金によって「啓蒙所」を開設しようとする運動であった。彼は言う、「貧富を分たず、男女七歳以上十歳に至る迄尽く此の啓蒙所に入れ、容儀を教え、其才知を実地に培養せば、【略】其中必ず国家有用の材もこれ有るべし、【略】朝に英俊満ち、野に遺材なく、賢者位に有り、能者職に有り、また、何ぞ外侮を患へんや」(啓蒙社大意)、言うまでもなくこれは明治新政府の「国民皆教育」の理念を先取りしたものである。
そして、次郎は人々に訴えかけた。「志有る人は、或いは古衣一枚を売り、或いは寝酒一勺を減じ」子弟の教育に当たろうではないかと…。彼の努力は広範な民衆の支持を得て、実を結んでいった。
啓蒙所第一号が開設された長尾寺
明治4年(1871)2月6日、深津郡深津村長尾寺(現福山市西深津町)に最初の啓蒙所が開かれたのを手始めに、各地でその開設が相次ぎ、明治5年(1872)8月3日のいわゆる「学制発布」の時点では、83カ所、通学生5,095人。明治新政府の役人をして、「啓蒙所は文部省も聊か先手をうたれた」とうならせることになるのである。
試みに、ご自分の出身小学校の歴史を紐解いて欲しい。昭和四十年代の新設校でなかったなら、例外なく窪田次郎の提唱した「啓蒙所」に突き当たるはずである。(田口義之「クローズアップ備陽史」より)
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2012年12月18日
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