|
実は、今日は拙者の誕生日でござった
今を去ること○◎年前、母上が納屋の二階に藁束を上げていた時、急に陣痛が始まり生まれたとさ、予定日は2月だったそうで、なかなか産声を挙げれなかったとか…。
ということで、今日、奥方がプレゼントしてくれたのがこれ、さて何でしょう?
ついでに、つい先日から始めた我家の電飾をアップしておきます。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2012年12月19日
全1ページ
[1]
|
窪田次郎と小田県蛙鳴群
私と窪田次郎の出会いは、30年あまり前にさかのぼる。神辺に光蓮寺という寺があって、ここで彼の書いた「奉矢野権令書」の写しを見たのが始まりである。
窪田次郎肖像(広島県立歴史博物館蔵)
最初手に取ったときは、正直言ってその価値がわからなかった。「大して古くない文書だな、明治時代のものかな」とただ漠然と思っただけである。その後、窪田次郎のことに関心を持つようになってその価値と、何故神辺の光蓮寺にその写しがあったのかわかるようになった。
「奉矢野権令書」は、明治7年【1874】7月、窪田次郎が時の小田県権令矢野光儀に宛てて「小田県議会」の開催を要請した建白書であり、その開催運動の中心になった「小田県蛙鳴群【あめいぐん】」の学習会の会場が、神辺の光蓮寺であったのだ。
蛙鳴群の会場になった神辺光蓮寺
窪田次郎は、民主的な議会制度に関しても先覚者であった。明治4年【1871】と言う、全国的に見ても早い時期に、次郎の提唱によって彼の住む粟根村では「民会」が開催され、村の収支決算が討議されている。また、翌年には、「下院議員結構の議案」が彼の手によって書き上げられている。
彼の構想した議会制度は、男女に関わらず「一家に一票」という極めて民主的な選挙で選ばれた議員が、「村会」「郡会」「県会」「国会」の4段階にわたって国政を議すという極めて斬新なもので、その県会開設の要望書が最初に述べた「奉矢野権令書」であったのだ。
「衛生・資産・品性」の獲得こそ人間の人間たる所以と考えた彼にとって、明治新政府の「富国強兵」政策は我慢のならないものであった。彼はその手紙でいっている、「いわゆる富国と申すは、政府に金穀の集まり候者にては決してこれなく、国中皆富候を誠の富国と申し候・・・・」
小田県庁の跡(岡山県笠岡市)
次郎が明治新政府の政策と真っ向から対立したのは明治6年から始まった「地租改正」である。地租改正は江戸時代までの現物年貢を改め、土地の地価を定め、その3パーセントを税金として徴収しようとした税制改革で、明治大正と多くの農民が小作農に転落して、苦労するもとになった政策である。現物年貢時代は、凶作の場合年貢がある程度減免された、しかし、金納になれば豊凶にかかわらず税金は納めなければならない。日本が近代国家に脱皮するために必要とされた税制改革であったとは言え、これでどれだけの勤勉な農民が呻吟したことか。
粟根の窪田邸に建つ供養塔
しかし、窪田次郎の地租改正反対闘争は、列強に追いつけ追い越せの富国強兵政策を強行する明治新政府の容れるところではなかった。「錦の御旗」を掲げる政府によって次郎の運動は弾圧され、彼自身も医師の免許を取り上げられ、岡山の偶居で寂しく客死することになるのである。(田口義之「クローズアップ備陽史」)
|
全1ページ
[1]







