|
足利直冬と鞆
尊氏にとって鞆は、生涯消えることの無かった実子直冬との骨肉の争いの発火点となった地としても、忘れることのできない場所であった。
尊氏には後に室町幕府の二代将軍となった義詮のほかに少なくとも二人の男子がいた。一人は義詮の同母兄で夭折したことがわかっているが、もう一人長兄にあたる人物がいた。
足利二代将軍義詮(直冬の弟)御感御教書
(福岡県・杉原文書)
それが後の直冬である。しかし、その母が遊女であったためか、長く父子の対面を許されることなく、少年時代は不遇の境涯にあった。この直冬に温かい手を差し伸べたのが、尊氏の弟で直冬には叔父にあたる直義であった。
実子に恵まれなかった直義は、直冬を自分の養子として晴れ舞台に立たせた。養父の後押しで長門探題に任命された直冬は、貞和5年(1349)4月、備後の鞆にやって来た。
直冬が本拠を置いた鞆大可島城址
だが、直冬の立身は、長く続く実父尊氏との戦いの始まりでもあった。その直後、尊氏と直義の全国を二分した争い、“観応の擾乱”が勃発、養父直義に味方した直冬は実父と地獄の闘争を繰り広げることになるのである。
大可島城址の舟隠
左の家が宮崎駿監督が滞在したお宅
直冬が本拠を置いたのが、現在は円福寺の境内となっている大可島である。ここは当時、鞆港の出口を押さえる要害で、直冬が去った後も南朝方と北朝方の争奪の巷となり、幾多の悲話を伝えている。(続く)田口義之「備後散策」
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2012年12月25日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]





