備後山城風土記

備後の山城と武将の紹介ブログです

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足利義昭と鞆
義昭が備後の鞆にやって来たのは、言うまでもなく織田信長によって京都を追われたためである。すなわち、永禄11年(1568月、信長に擁せられて室町幕府十五代将となった彼は、初めのうちは信長に恩を感じ、両者の仲は親密であったが、自己の地位が信長の傀儡に過ぎないのを悟った義昭は、次第に信長の存在を疎ましく思うようになった。そして、元亀年(1572)、ついに信長打倒の旗を挙げたのである。結果は、義昭の敗北であった。山城槙島城に3800余人で籠った彼は、信長の攻撃に一たまりもなく降伏、ここに250年続いた室町幕府は幕を下ろすことになるのである。
 
義昭所用の肩衣(福山市・常国寺)
イメージ 1
 
歴史家は、信長の義昭追放をもって室町幕府の滅亡としているが、栄光の室町幕府の看板を自分が下したとは、彼自身は全く思っていなかった。義昭自身は紛れもなく現職の征夷大将軍であるし(ここで誤解があるようだが、この時義昭は将軍職を首になったわけではない)、京都を離れたのは、単に反逆者信長の難を避けただけである。そして、あくまで自分は天下を治めるべき現職の将軍であるとして、各地を放浪しながら、全国の大名に信長打倒の檄を飛ばしたのである。
 
鞆の景観
中央の丘が義昭の御所が置かれた古城山
イメージ 2
 
義昭が一番頼りにした大名は、安芸の毛利氏であった。当時毛利氏では英雄元就が世を去ったとは言え、毛利両川と呼ばれた小早川隆景・吉川元春は健在で、その勢力は大坂の石山本願寺と結んで摂津・播磨(兵庫県)に及んでいた。義昭が毛利氏こそ、と思ったのも無理はない。そして、毛利を動かすべく、天正日、備後の鞆に動座(どうざ)したのである。(続く)田口義之「備後散策」

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