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幻の鞆幕府
足利義昭が、居を構えたと伝えられるのが、現在鞆の浦歴史民俗資料館の建つ「鞆城跡」である。鞆鉄バス終点で下車し、港沿いの道から町中に入ると、左手に小高い丘が見えて来る。これが鞆城跡である。駐車場から登って行くと、左右に刻印を打った石垣が目につくが、この石垣は義昭当時は無かったものである。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦の後、福島正則が芸備の大名として広島城に入って来るが、この石垣はその正則によって築かれた鞆城の遺構である。義昭時代の古い石垣は、丘の下に民家に隠れるように低く対潮楼の方角に続いている。
鞆城の古い石垣
義昭が鞆にやって来たのは、先祖尊氏の吉例に倣ってのことであることは間違いない。天正6年(1578)正月、彼は浄土寺の古文書を一覧して証判を加えているが、浄土寺は初代尊氏が上洛途上立ち寄り、戦勝を祈願した足利氏縁の寺である。先祖の筆跡を見た彼は、室町幕府の再興に熱き血をたぎらせたことであろう。
足利義昭御内書(山内首藤家文書)
だが、彼の夢は叶わなかった。天正10年6月、宿敵信長が本能寺で倒れ、彼の前途に光明が射したかと思ったのもつかの間、信長の天下統一事業は秀吉によって引き継がれ、義昭は歴史の流れに取り残されて行くのである。 鞆城跡の東に接して「神明亭」と呼ばれる安土桃山時代の庭園の跡が残っている。義昭の居館の一部ではないかと言われるこの庭園跡に立つと、枯山水の石組もなんとなくみやびて、戦乱の中でも将軍たる品格を失うまいとした彼の執念が伝わって来そうである。
「義昭の庭」と推定される申神亭跡
「鞆幕府」は、幻に終わり、足利氏はついに「鞆に滅んだ」。義昭に関しては「陰謀将軍」だの「流れ公方」だの負のイメージが強い。しかし、信長・秀吉といった英雄を相手に一歩も引かなかったところなど、彼もやはり一個の英雄と言えるのではなかろうか。(おわり)田口義之「備後散策」
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2012年12月28日
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