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中世山城の縄張
中世『築城術』がなかったのかといえば、そうではない。『群書類従』には「築城記」と称する古書が収録され、外題によれば、原本は越前朝倉氏の家臣が伝えたもので、少なくとも永禄年間(一五六○年代)にさかのぼるという。いうまでもなく山城の作り方のテキストである。
発掘された竪堀(尾道市・牛の皮城址)
また、戦国期の城郭研究の進展につれて、各戦国大名独自の縄張も明らかにされてきた。武田氏の「丸馬出し」、後北条氏の「障子堀」などである。
さらに、同時代史料にも築城のスペシャリストが出現する。すなわち、石山本願寺の証如上人の日記『天文日記』には「城を作る松田入道」(註①)が現れるし、『信長公記』には石山本願寺は「加賀国より城作り」(註②)を召し寄せ、信長に対抗したとある。
横から見た竪堀群(同上)
註①『天文日記』天文二十一年三月十日、同二十二年二月二十日の条
註②『信長公記』巻十三
最近のこうした風潮、縄張図を近世の軍学者の目から見ずに、考古学的に、また、築城者の意図を探りながら「読む」という傾向は、私にあるヒントを与えてくれた。すなわち、武田・後北条(最近は上杉も)に独自の築城術があるならば、それより一段下の有力国人クラスの家にも独自の築城術があるのではなかろうか、ということである。
備陽史探訪の会刊『山城探訪』
この想像が一つの「像」を結ぶきっかけとなったのは、17年前、備陽史探訪の会が全力をあげて取り組んだ『山城探訪―福山周辺の山城三〇選―』(註参照、以下『山城探訪』と略)の発刊である。編集発刊の過程で私は改めて福山周辺の主要な山城を歩くことができた。そこで前述の問いかけ、「有力国人の独自の築城術」解明の手がかりになりそうなある「事実」を見つけたのである。(続く)
謹賀新年
本年もよろしく
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