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足利義昭と備後(1)
天正4年(1567)2月、室町幕府最後の将軍、足利義昭が備後の鞆の浦に「動座」したのは、毛利氏を動かし、信長討伐の先鋒とするためであった。
室町幕府15代将軍足利義昭
だが、毛利氏は容易に動かなかった。当主輝元の祖父元就の遺訓を守って、「天下御競望」即ち、上洛に消極的であったからだ。
義昭が領国の鞆に移座したことは、毛利氏を否応なく信長打倒に立ち上がらせた。義昭を受け入れたことは、反信長の旗幟を鮮明にしたのと同様であり、毛利氏も月余の逡巡の後、義昭の下知を受け入れ、義昭を擁して「上洛戦」に挑むこととなった(1)。
義昭が動座した鞆(中央の丘が鞆城址)
幕府再興を受け入れた毛利氏は、「御所」を造営して義昭の身の回りを整え、幕府再興が単なる名分でないことを世に示そうとした。
毛利氏が義昭のために造営した御所は、今の古城山の西の「公方」にあったとも、古城山にあったともいう(2)。
鞆城址の石垣(福島時代のもの)
現在の古城山に残る石垣は、殆どが慶長6年(1601)から11年(1606)にかけて福島正則が築いた「鞆城」の遺構だが、一部にはそれより古い石垣も確認される(3)。毛利氏が義昭のために造営した御所(鞆城)の遺構と見ていいだろう(続く)
(1)『島津家文書』94号
(2)『沼隈郡誌』など
(3)池田一彦氏のご教示
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