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足利義昭と備後(2)
―国人衆の歓待―
毛利氏は義昭を推戴するや、旗下の国人衆に、義昭の為の奔走するよう依頼した(4)。分国の国人衆も喜んでこの要請に応じた。国人衆は幕府が滅ぶとは思ってもみないことで、何れ義昭は上洛し、幕府を再興すると考えていた。義昭に恩を売ることは、再興された幕府内での地位を高めることであり、その絶好の機会と捉えたためである。
山内隆通の忠節を賞した足利義昭御内書
実際、国人衆の歓待ぶりは毛利氏の予想をはるかに超えていた。例えば、備後山内氏の場合、名代として同名兵庫助を義昭のもとに派遣し、太刀、馬などを献上した(5)。義昭の幕府に対する国人衆の奉仕は、山内氏だけでなく、安芸の平賀、天野、熊谷、石見の益田、周布、出雲の三沢、宍道氏などが確認され、その他の国人衆もその殆どが義昭の元に使者を派遣したものと考えられる(6)。
渡辺元に白笠袋毛氈鞍覆の使用を許した
足利義昭御内書(福山市・常国寺文書)
こうした国人衆の幕府出仕に対して、義昭も栄誉や官途の授与で応えた。山内首藤氏は「供衆」に任ぜられ(7)、熊谷氏は豊前守に補任された(8)。これらの栄誉は、彼等がかつて望んでも果たせなかったもので、彼等の自尊心を大いに満足させるものであった。
義昭所用の肩衣(福山市・常国寺)
また、遠国の諸大名も、鞆の義昭の下に使者を派遣した。越後の上杉、甲斐の武田をはじめそれは九州の島津、四国の河野、長曾我部氏など、ほぼ全国に及んでおり、義昭の「幕府」が名だけでなく、実も備えていたことが分かる(9)。(続く)
(4)『熊谷家文書』168号・『山内首藤家文書』248号など
(5)『山内首藤家文書』253・315・400号など
(6)『閥閲録』121、『熊谷家文書』157号、『平賀家文書』157号など
(7)『山内首藤家文書』256号
(8)『熊谷家文書』175号『島津家文書』『上杉家文書』「古今消息集」「香宗我部家伝証文」など
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2013年01月09日
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