|
足利義昭と備後(4)
ー今も残る義昭の痕跡ー
義昭は将軍の権威を振りかざすだけでなく、料所の獲得には異常なほど執念を燃やした。義昭が長和(瀬戸町)を料所として要求した際の話である。義昭の使者として輝元の下を訪れた小林家孝は、「この段すます候はば罷り戻らず(要求を受け入れてくれるまでは帰らない)」などと、喧嘩腰で言い張り、遂に「長和二百貫」の進上を認めさせている(12)。
義昭の別邸址と伝わる蔀山(福山市西深津町)
『信長公記』によると、信長は、義昭が蓄財ばかりに熱心な「悪将軍」(13)だと弾劾したとあるが、或いは、それは義昭の一面を正確に言い当てたものであったかもしれない。
義昭が秀吉と会見した田辺寺(福山市津之郷町)
津之郷、長和が将軍義昭の「料所」であったことは、地元に残された資料からも確認できる。津之郷の田辺寺、和光寺、艮神社は義昭から寺社領の寄進を受けたとされ、長和の福井八幡神社(瀬戸町)も天正年間、義昭が再興し、社領を寄進したと伝える(14)。
イコーカ山の伝足利義昭墓(同赤坂町)
この義昭の「料所」は、義昭が帰京した後も維持され、天正19年(1591)の、『毛利家八ヶ国御配置絵図』(15)備後国にも、沼隈郡のところに、「昌山(義昭)様領、千参百五拾石」の文字が黒々と記入されている。
常国寺「将軍塚」(同熊野町)
福山市内にあるはずが無いとされ、「誤伝」と切り捨てられる義昭の石塔(熊野町常国寺の裏山などに残っている)も、こうした事実を検証していくと、決して架空のものではない。料所管理のために、備後に在国した義昭の奉公衆(家臣)が、主君の菩提を弔うために建立した可能性もあるのである。
(12)『県史』古代中世資料編Ⅴ所収譜録二宮太郎右衛門
(13)『信長公記』巻六
(14)『水野記』十三備後国沼隈郡寺社
(15) 山口県立文書館蔵
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2013年01月11日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]








