備後山城風土記

備後の山城と武将の紹介ブログです

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鞆大可島城と村上亮康(3)
 
因島村上氏の鞆進出に関しては、謎も多い。
 
大可島から見た仙酔島
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一つは、鞆支配の根拠とされる、天文13年(1544)7月3日付の大内義隆下文だ(注5)。この文書では「備後国沼隈郡鞆浦内」とあるはずのところが「備後国安名郡鞆浦内」となっている。しかも安名郡は「安那郡」の誤りだ。内海屈指の要港として周知されていたはずの鞆浦の郡名を、大内氏の右筆、或いは義隆が間違えるだろうか。
 
大内義隆下文(因島村上家文書)
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さらに、この文書は義隆の花押が巧妙に写されているとはいえ、「写本」である(6)。
 
鞆の支配者は、戦国時代の初頭には室町幕府から備後守護に移っていた。永正4年(1507)12月、備後守護山名致豊は、沼隈郡高須の杉原右馬助、世羅郡上山の上山加賀守に、上洛する前将軍足利義稙の為に鞆・尾道で宿所を設けるよう命じた(7)。
 
さらに、山名氏の後、実質的に備後を支配した尼子氏も鞆を支配した(8)。
 
鞆要害を築いた渡辺出雲守房(常国寺蔵)
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また、北に山越えした山田(熊野町)の領主渡辺氏も鞆に影響力を持った国衆の一人で、天文末年(1553頃)には毛利氏の命で「鞆要害」の普請を行っている(9)。若しこの時点で、村上亮康が大可島に在城していたとすれば、渡辺氏の「鞆要害」と競合するはずで、あり得ないことではないが、不自然である。
 
こうした様々な状況証拠からして、因島村上家文書の天文13年7月3日付の大内義隆下文は「偽文書」と断定せざるを得ない。(続く)
 
 
(5)因島村上家文書
(6)県史古代中世資料編Ⅳ「因島村上家文書」では正文としているが長谷   川 博史氏は写本で「若干疑問なしとしない」としている(鞆の浦の歴   史―福 山市鞆町の伝統的町並みに関する調査研究報告書Ⅰ 福山市教   育委員会)
(7)「萩藩閥閲録」巻四〇上山庄左衛門・同巻六七高須惣左衛門
(8)「福山志料」巻三二所収文書
(9)県史古代中世資料編Ⅴ所収萩藩譜録渡辺三郎左衛門
 
 
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