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鞆大可島城と村上亮康(4)
村上亮康の鞆支配が確認されるのは、天正4年(1567)6月の「伊勢参宮海陸之記」(注10)からである。この文書は伊予の戦国大名西園寺宣久の旅日記で、6月14日に鞆に寄港し、21日まで滞在、宣久は「鞆助安」に「一礼」した。従来この「鞆助安」は鞆の有力商人と考えられてきたが、島根大学の長谷川博史氏が考察されているように、村上亮康に比定するほうが妥当である(注11)。
大可島の「船隠」
大可島に居城した亮康は、在名を取って「鞆氏」を称したようである。亮康が「鞆」を名字としたことは、先に紹介した西園寺宣久の「伊勢参宮海陸之記」の他に、天正13年(1585)の「小早川家座配書立」(注12)がある。この文書は、小早川家における正月の着座順を記したもので、「上」に向かって左側の六番目に「鞆殿」すなわち、亮康の名がある。因島から鞆に分家した亮康は鞆氏を称したと見ていいだろう。
円福寺境内から見た鞆港
亮康が鞆を領有したきっかけは今となっては不明だが、水軍を必要とした毛利氏が、因島村上氏を味方に着けるため、同氏が鞆領有の証拠とした偽文書をあえて正文書と認め、亮康に鞆の支配を任せたのではなかろうか。その時期としては、毛利氏が因島村上氏に大きな「借り」を作った弘治元年(1555)九月の厳島合戦後、とするのが良いと思う。(続く)
(11)『愛媛県史』資料編文学所収
(12)鞆の浦の歴史―福山市鞆町の伝統的町並みに関する調査研究報告書
Ⅰ福山市教育委員会
(13)大日本古文書家わけ12『小早川家文書』475号
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2013年01月15日
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