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鞆大可島城と村上亮康(5)
鞆大可島城の伝えは混乱している。多くの「備後古城記」の写本では、村上亮康の代わりに村上河内守を載せ、「永禄年中」の居城としている(注13)。「西備名区」は河内守の実名を「吉継」とし、元伊予河野氏の旗下で、後に毛利氏に属し、船手の将として厳島の合戦で手柄を立てたという(注14)。
大可島より見た燧灘
鞆は内海の要港であっただけに、海賊衆の勢力が早くから及んでいたはずだ。海賊は何も村上氏の専売特許ではない。塩飽や伊予河野氏の流れを組む者も、備後沿岸部には存在した。「備後古城記」によると、引野や野々濱の古城主に「塩飽」氏が見られ、一帯は当時沿岸部であったことから、塩飽海賊衆の一族と見られる。また、大門の古城主藤間氏は伊予河野氏の一族と伝わり、後、出家して光円寺の開基となったという(注15)。
「関の大将」と呼ばれた海賊が拠った宇賀島
手前が尾道水道である
実際に、記録に姿を現さない海賊衆も多かった。尾道市向島の「宇賀島衆」もそのひとつだ。彼等の正体は杳として知れないが、その最後だけははっきりしている。「宇賀島」は向島の北岸に浮かぶ「岡島」のことと考えられ、小さいながらも尾道港の喉元を押さえる絶好の位置を占めていた。宇賀島海賊衆が史上に姿を見せたのは天文二三年(一五五四)十一月のこと。同年五月、陶氏と断交した毛利氏は、備後安芸の陶方一掃を図り、陶氏に味方していた宇賀島海賊衆を攻撃した。安芸備後の国人衆や因島村上氏の包囲攻撃を受けた宇賀島衆は全滅した。彼等は全く痕跡を残さず姿を消したため、今もってその素性はは明らかでない(注16)。
海賊村上氏の船旗(宮窪町立資料館)
大可島に居城したという村上河内守もそうした海賊の一人だったと考えられる。村上氏といえば能島・来島・因島の「三島村上氏」が有名だが、備後南部には、それとは別の村上氏が存在した痕跡は幾らでも残っている(注17)。大内義隆を滅ぼし、西国の覇者たらんとした陶晴賢が鞆を見逃すはずはなく、亮康の大可島在城の前に「陶方」の海賊衆が鞆を押さえていたとしても何ら不思議は無い。(続く)
(13)代表として備後郷土史会編「備後叢書」所収本
(14)歴史図書社刊『備後叢書』第3巻「西備名区」備後国沼隈郡鞆浦
(15)同 備後国深津郡大門村の条など
(16)「向島町史」通史編
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2013年01月16日
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