備後山城風土記

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明王院の建築
 福山を代表する古建築は言うまでもなく、草戸町の真言宗明王院の建築群である。明王院は、元理知院常福寺と呼ばれた古刹で、平安時代の大同年間(八〇六八一〇)、弘法大師空海によって創建されたと伝える。現在残る建物は、創建時のものではなく、国宝本堂と五重塔は鎌倉時代末期から南北朝時代の初期にかけて、県重文の庫裏と書院は江戸時代初期にそれぞれ建立されたものである。
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国宝明王院本堂
 本堂は、全体的に和様の様式を取りながらも、細部に唐様建築の手法が採用された「折衷様」の最も古い建物の1つで、外陣の「輪垂木天井」は極めて珍しいものである。この建物は折衷様の形式を持つことから、室町中期の建築とされていたが、昭和の解体修理によって内陣蛙股から「紀貞経代々二世悉地成就元応一三二一)年十四日沙門頼秀」の墨書銘が発見され、鎌倉末期の建立であることが明らかになった。五重塔も同時に解体修理され、伏鉢の銘文から南北朝初期の貞和一三四八)の建立が明らかになり、和様の代表的な塔として国宝に指定された。
 庫裏と書院は、元々城下にあった明王院の建物で、明暦年間(一六五五五七)、常福寺と明王院の合併の際、明王院から移建されたものである。両建物とも近世初頭の初期書院形式の雄大な建物で、元神辺城内にあったものを拝領したとする伝承もあながち架空のものではないと考えられる。
安国寺釈迦堂
 市内最古の建物は、鞆町の安国寺釈迦堂である。安国寺は、室町幕府初代将軍足利尊氏が暦応一三三九)、国ごとに建立した安国寺の一つと考えられていたが、釈迦堂内に安置されている法燈国師坐像(重文)の体内墨書によって、鎌倉時代に金宝寺として創建され、のち安国寺に転用されたことが明らかになった。
 釈迦堂は金宝寺として創建された当時の建物と考えられ、鎌倉時代初期、栄西禅師によって導入された禅宗様の典型的な仏殿建築で、尾垂木の組み入れ、堂中央の鏡天井など内部の構成はすばらしい。猶、この建物は慶長一五九九)年、当時の住持であった安国寺恵瓊によって大修理され、昭和年の解体修理を経て、今日に至っている。恵瓊は安芸安国寺の住持も兼帯し、毛利氏の外交僧、また秀吉に重用され僧侶でありながらも大名となった人物で、関が原の合戦で石田三成と共に西軍方の首謀者として処刑された。仏殿背後の石庭は安土桃山時代の特徴を持ち、庭中の蘇鉄は恵瓊遺愛のものと伝えている。
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安国寺釈迦堂
福山城の建物
 福山城に残る伏見櫓と筋金御門(共に重要文化財)も福山を代表する古建築の一つである。勝成によって築城された福山城の建物は、明治年の廃藩置県後民間に払い下げられ、天守閣と伏見櫓・筋金御門を残すのみとなっていたが、戦前国宝に指定されていた天守閣は、昭和二〇年の福山空襲によって焼失してしまった。
 伏見櫓は、「伏見」の名称が付けられているように、京都にあった伏見城の遺構である。勝成は築城にあたって幕府から伏見城の「伏見御殿」外多数の建物を拝領しており、伏見櫓・筋金御門共に伏見城より移建されたものである。当初この両建物は秀吉が築いた伏見城の遺構と考えられていたが、伏見櫓の解体修理の結果発見された「松の丸東やぐら」の刻銘により、関が原の合戦後、徳川氏によって再建された伏見城の建物であることが判明した。関が原の合戦で伏見城は松の丸以下全焼していることが当時の記録で明らかだからである。
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伏見櫓内部、梁に「松の丸ひがしやぐら」とある
 明治初年に民間に払い下げられた福山城の建物は、市内に点々と残っている。有名なのは鞆の岡本保命酒店の店舗として使用されている長屋門で、同店では明治初年の打壊しで全焼した建物の代りに福山城の建物を購入したと伝え、軒先の瓦には今も水野氏や阿部氏の家紋を見ることが出来る。
 また、福山築城にあたっては廃城となった神辺城の建物も利用されており、古絵図には神辺一番櫓、神辺荒布櫓などの名が記されている。神辺城の建物は他にも寺社に下げ渡されたと伝え、北吉津の実相寺の山門はその一つだと言われている。
相方城の遺構
 神辺城の他に、近世初期に廃城になった城の遺構と伝える建物も点々と分布する。北吉津の真言宗胎蔵寺は、もと比婆郡西城にあった寺で、福島氏が神辺城下に移し、更に福山城下に移建されたと伝え、山門は西城大富山城の城門を拝領したものと言う。当初の部材はほとんど残っていないが、蛙股には大富山城の城主であった宮氏の紋所が刻まれている。
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城下に移された城門
 関が原以前の城郭建築の遺構としては、新市町の相方城の城門と櫓が有名である。相方城は天正初年(一五七五頃)に有地元盛によって築城された山城で、今も標高一九二mの山上に累々たる石垣が残っている。城の石垣も安土桃山時代の石垣として貴重なものだが、廃城にあたって城下の戸手天王社に建物の一部が移建され現存するのが目を引く。特に境内の東北に残る門は、薬医門形式の関が原以前の城郭建築としては最古のものと考えられ、貴重である。また相方城の櫓と伝えられる建物が境内西側に残っていたが、近年火災で焼失したのが惜しまれる。

備後イソップ物語

 戦国時代の初め、毛利元就が登場した頃、備後で最も力のあった国人は宮氏であった。
 宮氏は、平安時代の中頃に関白となった、小野宮【藤原】実頼の子孫と称し、「小野宮」を略して「宮」を名乗ったと伝えている。備後に土着した時期は不明だがですが、南北朝時代の初めには、備北奴可郡(庄原市東城町・西城町)を本拠に、備南にかけても相当な勢力を持っていたようで、宮下野守兼信入道道仙は足利尊氏・義詮父子に味方して手柄を立て、備中国の守護職に任命されている。
 隣国の安芸で元就が頭角を現した頃、宮一族で最強の勢力を誇っていたのは、「宮城」に拠る宮下野入道であった。下野入道は「備後国主」を自称し、元就が大内氏に味方したのに対して、大内氏のライバル尼子氏に従っていた。備後に野心を持つ元就にとって、いずれは対決しなければならない相手であった。
 その機会は以外に早くやってきた。
 天文年間【一五三二〜五四】の初め、尼子氏に内紛が起こり、宮氏を支援する余力がないのを見た大内氏は、さっそく元就に宮城の攻略を命じたのだ。
 天文三【一五三四】年二月上旬、二千の兵を率いた毛利元就は吉田郡山城を出陣し、宮氏討伐の征途についた。
 対する宮下野入道も自信満々で元就を迎え撃った。ある本によると、元就の出陣を知った入道は、「わしを討ち取ろうとは笑止千万、返り討ちにして、吉田まで攻め入ってやる」と豪語したと言う。
 しかし、天は元就に味方した。毛利勢を迎え撃って善戦したのもつかの間、入道は急病で呆気なく亡くなってしまった。後に残されたのは、幼少の嫡子、若狭守であった。城中の宮一族は、家老の丹下与兵衛を中心として果敢に抗戦を続けたが、その与兵衛が討ち取られると、城方の戦意は急速に衰えた。同年十月、宮一族は遂に城を明け渡して、元就に降伏した。
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          亀寿山城跡に残る柱穴
 合戦の舞台となった宮城については、新市の亀寿山城が当てられている。しかし、確証はなく、宮城を「有地城」と記す記録もあり、市内芦田町下有地の殿奧城跡を宮城とする説もある。

お城になった古墳

 平成20年3月23日、備陽史探訪の会が、福山市と協働で整備を進めていた「福山古墳ロード」がめでたく完成した。服部大池の土手を基点に、近田駅までのAコース、加茂町の江木神社までのBコース、北に行って蛇園山の麓にある泉山城跡までがCコースと、好みと健脚度に応じてコースが選べるようになっている。
 
 「古墳ロード」と銘打っているが、コース中の山城、神社仏閣なども取り入れている。今回、紹介する「小井城」跡もその一つだ。
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 最初に断っておきたいのは、その城名である。本稿では「小井」と表記したが、古墳ロードの説明板、マップなどでは「小糸城」となっている。江戸時代の「備後古城記」「西備名区」では、「小井城」あるいは「小井の城」、草土千軒遺跡からも「小井より正税分」という木簡が出土していることから、本来「小井」が正しいと思うのだが、広島県の城館遺跡調査報告書が「小糸」と表記し、市教委も其れに従ったため、今回の説明板は「小糸城」となった。
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 さて、城は北部工業団地のある丘陵から西南に伸びた低い尾根筋を加工して城郭としたもので、本格的な山城というより、「土居形式」の居館と言ったほうがよい。それも古墳を利用したところに大きな特徴がある。城跡に古墳があったことが判明したのは、ほんの20年ほど前のことだ。城跡の南側の胸壁工事の際に「円筒埴輪」列が発見され、城の本丸・二の丸部分が古墳であることがわかった。当時の報告を読むと、円筒埴輪は東西に整然と並んで埋められており、更に城跡の北側にも埴輪列が存在することが確認された。南と北の埴輪列は50㍍くらい離れており、古墳は相当大規模なものであったことが推定された。奈良や大阪では、巨大前方後円墳が城として利用された例があるが、県内では珍しい。
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 「備後古城記」「西備名区」とも、城主として宮兵部大輔勝信を挙げ、天文年間(1532〜1555)、毛利勢の攻撃を受け、北方800㍍のところにある掛迫城と同時に落城したという。以前述べたように、駅家町法成寺には室町時代中期以降、宮氏の一族「宮法成寺」氏が本拠を置いており、小井城の宮氏もその一族であったことは間違いない。さらに掛迫、小井両城の位置関係、および草戸から出土した木簡に「小井よりの正税分」とあることから推定すると、宮法成寺氏の本拠は小井城で、「要害」として築いたのが掛迫城であったと考えられる。
 
 宮勝信は、実在の人物だ。天文一〇年(1541)の宮実信感状(備中平川文書)に「この度、椋山に於いて、法成寺兵部大夫雅意仕り候」とあり、郷土史書が伝えるように天文年間に活躍した人物であったことがわかる。
 
 現在、小井城は住宅地の侵食によって落城寸前の様相を呈している。南から北側はほとんど削平され、城塞としての面影を残しているのは、西南端の本丸付近だけである。古墳としての価値も高く、今後周辺で開発などが行われる場合は、事前に十分な調査を実施してもらいたいものだ。
怪談「やや(阿良)が火」
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                怪談の舞台となった神村城址
 天正の末のことと言う、沼隈郡神村の城主で石井又兵衛という者がいて、側室を「阿良」といった。この阿良が修験者の松林院とただならぬ中となって、毎夜密会を重ねていた。ところが二人の関係を主人の又兵衛が知ってしまった。
 
 又兵衛は、周囲の止めるのも聞かず、烈火のごとく怒り、二人を殺してしまった。その様子を聞いたものは一様に身を振るわせた。又兵衛は二人を裸にして大桶の中へ入れ、上から「百足」と「毒蛇」を放り込ませ、酒を注がせた。酔った毒虫毒蛇は、陰門と言わず、耳鼻といわず、二人の身体に纏わりつき、二人は叫び狂いながら死んでいった。
 
 二人の骸は、近傍の伊勢山の傍らに埋められた(犬塚という)。その後、夜な夜な犬塚から「青火」が飛び、石井屋敷の人を悩ませた。これを「阿良(やや)の火」という。後に石井家で手厚く供養して収まったが、今(江戸時代後期)でも時々この火を見るものがあるという(西備名区)。有名な怪談「阿良の火」の一節だ。
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                神村石井一族墓所
 「阿良」は実在の人物らしく、石井家の墓所に墓もあり、神村の八幡神社の境内には、彼女を祀る祠もある。
 
 さて、怪談の舞台となった神村城跡は、神村町の伊勢山(鏡山)の東に残っている。園芸センターのある竜王山から北に伸びた尾根の一つを利用して築かれた山城で、現在も曲輪跡や空堀跡を見ることができる。
 
 城の歴史は意外と古い。
 
 「西備名区」によると、神村城は、明応年中(1492〜1501)に野気沼掃部頭重春が築き、同重信、同玄蕃と三代居城し、重信・玄蕃父子の代に、大内氏の旗下となって防州三田尻に移ったと云う。
 
 野気沼氏の去った後に神村城主となったのが石井氏だ。 石井氏の素性に関しては諸説がある。
 
 「西備名区」は、神村城主として石井石見守、同右京進を挙げ、古城記を引いて「古志の臣」と記している。「阿良の火」の又兵衛は、この石見守の息子だと言う。
 
 石井氏が古志氏の家臣であったという記載は、神村城の立地、構造から見て頷ける。
 
 神村は、平安末期以来、京都の石清水八幡宮の荘園、「神村庄」として知られている。荘園の政所として勧請されたのが神村八幡神社だ。だが、室町後期になると石清水の支配は後退し、隣接する新庄本郷の国人古志氏の勢力が神村に及んで来た。「水野記」神村八幡社のところに、「文安年中、古志正光神村の社領を削りて、七〇石を寄す。すなわち古志代々天正の末、元綱に至るまで社領あり」とあるのがそれだ。
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               地元の人によって整備された神村城址
 神村城は、古志氏の東の「境目の城」として築かれた(利用された)と見て、まず間違いない。
 
 石井氏の素性に関しては別に興味深い記載がある。石見守・右京進は兄弟で、元々京都の武士で将軍足利義昭の奉公衆であった。義昭が信長に追われ鞆に来た時に、石見守兄弟も従い鞆津に移り住んだ。よってその居住の跡を石井町という。その後、石見守は神村に移り、右京進も新庄本郷に移り住んだ…。
 
 「西備名区」の著者は、義昭の家臣であれば、時代も合わず、古志の家来というのも間違いだ、と述べているが、義昭の備後鞆津動座は天正四年(1576)、古志氏の没落は天正十九年(1591)だから、ありえない話ではない。一色氏のように、義昭の依頼で庄原の山内氏が召抱えた例もある(山内首藤家文書)。

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