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新備後古城記(その5)
九鬼山城
神石高原町小畑
その城の雄姿は意外なところ所からも目にすることが出来る。国道182号線を東城方面に行くと、道の駅さんわを過ぎた辺りから、左手の山並みを注視すると、折り重なるような山ひだの中、一段高く山頂を平らにした山が見えてくる。神石郡最大の国人として有名な馬屋原氏の居城九鬼山城だ。「九鬼」の城名はいかにも荒々しく戦国の城塞を彷彿とさせるが、地図を開くと、所在地の地名「久木」から来た城名だと分かる。以前は、井関から小畑に至る道の傍らに古ぼけた「九鬼城址」の標柱が立っていたが、現在はあるかどうか。城址を訪ねるには、近くまで来て住民の方に道を訪ねるのが良いだろう。
西麓から見た九鬼城山
城は、小畑盆地東方に聳える標高644㍍の山頂から西北に延びた尾根を4重の空堀で断ち切り、山頂を削平して城郭としたもので、山頂主郭は南北に長く、周囲に帯曲輪と厳重な畝状竪堀群をめぐらせている。また、山頂から西北に延びた丘陵上にも同じような堀切で区画された曲輪群が存在し、或いは、こちらの方が初期の九鬼城で、その後背後に堅固な城郭を築き、本城としたものかも知れない。
馬屋原氏には「平姓」を称した一族と、「源姓」を号した一族があったが、九鬼城に居城したのは前者の馬屋原氏で、伝承では小畑西方の上村の有井城に居た馬屋原正国が永正年間新たに築城して本拠としたという。戦国期には城主兵部大輔信春が一族を代表して活動し、その子宮寿の早世後には、敷名毛利元範の子元信が相続して馬屋原兵部大輔と号した。天正一九年の知行高は八百石余で、子孫は長州萩に移り、毛利家の大組士として存続した。(備陽史探訪の会平成28年1月行事案内より)
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備後の山城
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尾道市御調町大塔に残る山城跡。
北向きの標高340メートルの山頂に南北方向に曲輪が連なる。
山深い里の、更に奥の山頂に築かれ山城のため、私も一度しか訪ねたことがない。
備後の山城の中でも、攻略の難しい山城の一つである。
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高屋川の支流竹田川流域の平野部に突き出た舌状の台地上に残る城館跡。
尾根を空堀で断ち切り、削平して曲輪としている。周囲に一段低く帯曲輪をめぐらす。
居住性の高い、いわゆる土居城である。
城主は三吉氏と伝わっている。
この三吉氏は備後北部の三吉氏の庶流で、神辺城主杉原盛重の縁者三吉若狭守隆勝の一族が土着したものである。
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高梁川の支流、山野川の最上流域、神石高原町大字上と同じく成羽川の最上流部の同町阿字の分水嶺に築かれた山城跡。山頂主曲輪から四方に伸びた尾根上に多数の曲輪を築いた神石郡では最大級の規模を持つ。馬屋原氏初期の居城有井城はその最南端に属している。
馬屋原氏の山城と言われているが、はっきりした記録は無く、「謎」の山城である。
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福山市駅家町服部永谷の北から南に伸びた尾根筋を利用して築かれた山城。
全景は良いのがないので割愛する。
注目は二段目の曲輪跡に残る井戸と、南の尾根先端部に残る「柱穴」
井戸枠は後世のもののようだが、本体は所謂「円形石組井戸」で当時のものと見て間違いないだろう。
柱穴は建物の柱穴というよりも、幟か旗を立てたものであろう。
外の石組みは現代のものである
中を覗くと、戦国期の石組みが、まだ使えそうだ
曲輪群から南に50メートルぐらい離れた痩せ尾根にある
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