備後山城風土記

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備後の山城

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朝山二子城と楢崎氏(20)
 
 戦国百年を朝山二子城に拠って生き抜いた楢崎氏も備後を去るときが来た。慶長五年(1600)九月、毛利氏が関が原の合戦で敗れ、防長二州に押し込められると、楢崎氏も毛利氏に従って長州萩に移り、自然、朝山二子城も廃城となった。
 
晩秋の朝山城址
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 一族の中には備後に残ったものも多く、後年豊臣氏の激に応じて大坂に籠城した者もいた。中でも十兵衛尉景忠の逸話は有名である。景忠の武勇は有名で、水野勝成が備後十万石の大名として入封した時、領内に触れを出し、景忠の消息を尋ねた。景忠はこの時府中に隠棲していたが、その地の庄屋は、老齢の景忠が大坂籠城の罪で処断されることを痛ましく思い、「景忠は既に死去しました」と報告した。 
 
 実は、勝成は「大坂の陣」で景忠の勇猛な「武者ぶり」を目の当たりにしており、処断するどころか高禄で召抱えるつもりであったという。
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朝山二子城と楢崎氏(19)
 
 過日、改めて朝山二子城のある府中市久佐町を訪ねてみた。25年ほど前、備陽史探訪の会で城跡を含めた久佐の総合調査を行い大きな成果を収めたが、そのとき以来であった。
 
 5月にしては暑い、初夏のような日であったが、福塩線河佐駅前に立つと、右手に朝山が高く聳え、若葉が目に痛いほどであった。
 
安全寺の伝楢崎氏石塔
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 まず、城山の西の麓に建つ禅宗安全寺を訪ねた。駐車場が整備され、庫裏が新築されるなど、面目を一新した境内の西に、楢崎氏の墓石が以前来た時と同じように並んでいた。気のせいか、やや小ぶりになったような錯覚を覚えた。何れも花崗岩製の宝篋印塔で、戦国期の特徴を持っている。伝承通り、楢崎氏の墓石と見ていいだろう。西南の隅に「楢崎氏累代」と刻んだ真新しい五輪塔が目を引く。これらの宝篋印塔は現在でも近在の子孫の方によって供養されている証拠だ。
 
玉禅寺跡の築山跡
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 次に、本来の菩提寺であったという「玉禅寺跡」を目指した。確か、盆地の奥まった高地にあったはずだが、と人に尋ねても誰も知らない。城山と安全寺の墓石については知られているようだが、こちらはほとんどの人が無関心のようだった。1時間ばかり歩き回って、やっと場所を突き止め、恐る恐る山の中に入ってみた。「三宮というお堂の傍だから…」と聞いて、小道を登って行くと、五〇メートル足らずでお堂の立つ広さ二百坪ばかりの平坦地に出た。どうやらここが玉禅寺の跡のようだ。堂の傍らを山に向かって歩くと、右手に石垣の一角があり、五輪塔、宝篋印塔が合わせて三十ばかり整然と並んでいた。中央に「朝山城主楢崎氏旧墓地」と刻んだ石塔が立っている。宝篋印塔は小ぶりな戦国期特有のもので、安全寺の墓石はここから移したものとの伝承は間違いなさそうである。寺跡の一角には以前確認した庭園(池)の跡も残っている。さらに、南には二段の平地があり、典型的な戦国期の禅宗寺院の形態を残している。発掘すれば安芸吉川氏の万徳院跡のような遺跡が現れるはずである。(続く)
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朝山二子城と楢崎氏(18)
 
 楢崎氏の大きな所領が世羅郡にあり、それが後に周防吉敷郡に移されたのは、当時の毛利氏の事情があった。
 
 楢崎氏が、世羅郡に所領を持ったのは、楢崎氏が毛利家に反逆した上原元将の居城沼城を攻め落とし、元将室毛利氏を奪回した功績によるものと考えていい。また、その所領高が千貫に近い大きなものであったのは、天正十年(一五八二)から十二年(一五八四)にかけて行われた豊臣氏との
 
「国別け」で楢崎元兼が美作高田城を退去し、元兼が持っていた美作・備中の所領が宇喜多方に引き渡され、その代所という意味があった。高田城は後の勝山城(岡山県真庭市)のことで、美作に於ける毛利方の中心的な城郭であった。楢崎元兼は同地域に大きな所領を持っていたと見ていい。
 
楢崎一族が崇敬した久佐石垣八幡神社
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 その楢崎氏が更に周防に移されたのは、替わりに譜代の家臣を入れ、備後支配を固めるという意味があった。毛利氏は備後の要である世羅郡を親類となった上原氏を通じて行なうつもりであった。ところが、上原氏の反逆によってその目論見は潰れ、替わりに元就末子の秀包を上原氏跡に入れることで、備後中部を固めようとした。結果、世羅郡最大の国人となった楢崎氏は他国に移され、国衆としての地位を失ったのである。(続く)
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朝山二子城と楢崎氏(17)
 
 天正末年(1591頃)の楢崎氏の給地が『毛利家八箇国時代分限帳(以下分限帳)』と『八箇国御配置絵図(以下絵図)』で異なる問題は、楢崎氏の元兼から元好への家督交代という家内部の事情と共に、その史料としての取り扱いについて考えさせられることが多い。
 
玉禅寺跡の築山跡
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 一般に、「分限帳」は毛利氏が天正末年に実施した「惣国検地」の結果を記した「絵図」を江戸時代になって家臣ごとに給地をまとめて冊子にしたものと言われる。よって、惣国検地後の国人の所領については「絵図」の方を基本にしなければならないわけだが、国別に描かれた「絵図」は扱いが難しく、あまり利用されていないのが現状だ。
 
 しかし、今回のように、『分限帳』と『絵図』で大きな違いがある場合、やはり、原史料である『絵図』に基づいて考察を進めるのが原則であろう。
 
 今、試みに楢崎氏の場合、『絵図』の備後国分のみを書き上げてみると、次のようになる。
一、楢崎太郎兵衛(元景)の知行分は芦田郡の内、三百一石余のみである。
二、惣領家を継いだ元好の知行分は三谷郡の百石と世羅郡の六九五石余(朱字で七百四石余に訂正)、合わせて八百石である。
三、一族の勘二郎が三谷郡に一四石余の給地を持っている。
 
 そして、世羅郡の給地は没収され、替わりに周防国に九百石余の給地を与えられたわけだが、この周防の「楢崎領」を『分限帳』作者山田五左衛門が「楢崎彦左衛門信景」と即断し、「一、九百十八石六斗八合 楢崎彦左衛門 周防吉敷郡」と記入してしまったのではあるまいか。『分限帳』は毛利氏家臣団の給地を調べる場合大変便利なものだが、史料として用いる場合は、『絵図』との対比の上でしなければ過ちを犯す恐れがある。(続く)
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朝山二子城と楢崎氏(16)
 
 楢崎氏の本領は、朝山二子城の存在する久佐盆地とその東西の芦田川沿いの小さな河谷地帯に限られていたようである。『毛利家八箇国時代分限帳』に「参百壱石九斗六升七合 楢崎太郎兵衛」とあるのがそれだ。これは貫高を石高に直した「分米表記」だから、江戸時代の石高にすると約七百石の知行取りとなろうか…。
 
朝山城址に残る石垣
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 ここで検討を要するのは、草村を知行地としたのは、惣領の元兼ではなく三男景好の次男太郎兵衛元景であったことだ。
 
 楢崎氏の知行地に関しては、『毛利家八箇国時代分限帳』及び、その元となった『八箇国後配置絵図』(以下絵図)を分析すると面白いことが分る。絵図の芦田郡のところに楢崎太郎兵衛があるのは分限帳と同じだが、「弐百六拾九石1斗八升三合」を抹消して「参百壱石九斗六升七合」と朱書で訂正してある。また、その兄で惣領家の家督となった吉蔵元好は、絵図の世羅郡の所に「六九五石八斗 楢崎吉蔵」と書かれた後に抹消され、その給地は「七百四石」に訂正され井原大学に与えられている。分限帳に「九百十八石楢崎彦左衛門(信景) 周防吉敷郡」とあるのは、給地替によって楢崎氏が備後世羅郡から周防吉敷郡に移されたことを意味している。さらに絵図では楢崎氏の惣領として世羅郡に大きな給地を持っていた元好(吉蔵)が分限帳では別に二百五十石余の給地を備後に持ち、惣領が元好の祖父信景となっている。このあたり、楢崎氏の元兼から元好への家督交代にはやや混乱が見られる。(続く)
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