備後山城風土記

備後の山城と武将の紹介ブログです

備後の山城

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世羅郡世羅町堀越にある山城遺跡、比高15メートルほどの円錐形の山頂に二段の曲輪跡があり、土塁の痕跡も残っている。小寺十郎左衛門(後の佐渡守鎮賢)の居城と伝わっている。
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分かりづらいと思うのでもう一枚追加します
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掛迫城と宮法成寺氏(18)

 この現在地表に残る城郭遺構から推定すると、宮一族は、惣領下野守教元を中心に、一族がそれぞれ守備を担当した山城に籠城し、全体として東軍の攻撃に対処しようとした。中には、はるばる京都から手勢を引きいて籠城した一族もいて、彼等が守備した曲輪には「京都系」の土師器が残された。これが曲輪によって異なる系統の土器が残された理由だ。

柏城跡遠望
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 宮法成寺氏も一族挙って「かしわ村」に籠城した筈だが、一部の者は居城である掛迫城に居残った可能性もある。

 『渡辺先祖覚書』によると、宮氏と山名是豊の合戦は「いっきゅうりんそう」「つつみの城」などでも行われたとある。「いっきゅうりんそう」は一宮(吉備津神社)の「輪蔵」の意味で、今も吉備津神社の北に地名を残している。「つつみの城」とは、神辺町下竹田の在地武士鼓氏の居城のことと思われ、合戦は新市から神辺までの広い範囲を舞台にして行われた可能性が高い。その場合、掛迫城は神辺平野北側の拠点となるべき城塞であり、宮氏が当初から放棄した可能性は低く、或いは当主尾張守自身が籠城し、かしわ村東方の拠点として、東軍方と対峙していたのかもしれない。(続く)
掛迫城と宮法成寺氏(17)

 宮一族が立て籠もった「かしわ村」は、山中に孤立した一集落で、かつては二十数軒の人家を数えたが、現在では限界集落を通り越して消滅集落寸前となっている。ただし、人影が絶えたわけではない。新市や戸手などにあるショッピングセンターから車で10分の距離にあり、麓から畑に「日勤」されるかたも多い。

現在の「柏」
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 この地の周辺に多くの山城遺構が確認されたのは、1980年代のことであった。集落の西南側にゴルフ場の建設が持ち上がり、その事前調査によって今まで知られていた以上に城郭遺構が広がっていたことが判明した。その範囲は東西南北とも1キロ以上にわたり、今まで別の山城と考えられていた服部永谷の椋山城も、広義の「かしわ村」に含まれていた可能性が浮上した。もしそうだとすると「かしわ村」はとてつもない巨大な城塞となる。

 ただし、多くの城郭遺構は、後の戦国山城に見るような本格的な普請を施したものではない。尾根を堀切で区画し、その間を削平して曲輪としたのみの簡単な構造だ。が、そのような原始的な山城遺構が、数平方キロにわたって点在し、それぞれが独立した山城として機能するように配置されていた。しかも、一部実施された発掘調査によると、それぞれの山城跡から出土した土器に畿内系や在地系などの差異が認められるという(1)。

 これは何を意味しているのか。それぞれの山城に出自を異にする武士団が守備についていたことを意味しよう。そう、これが『渡辺先祖覚書』に「取分け宮下野守殿同じき彼の一門かしわ村に引き籠り居られ」が遺跡の上に現れた姿なのである。(続く)

掛迫城と宮法成寺氏(16)

 宮氏の備後下向は、在地に大きな影響を与えた。備後最大の実力者宮氏が西軍に応じ、在地に帰ったことは、それまでかろうじて均衡を保っていた東西両軍のバランスが崩れ、東軍の有力部将であった山名是豊は国元に於ける足場を失うことを意味した。追い討ちをかけるように山名宗全は腹心の宮田教言を備後に派遣し、備後西軍の指揮を執らせた。

 京近郊を転戦していた山名是豊はこの情勢に焦りを覚え、遂に備後に下向して、自ら西軍方と対決する腹を固めた。

 文明二年暮、京から姿を消した是豊は、翌年四月、備中から備後坪生に入り、草土から鞆に陣を進め、西軍方追い落としの活動を開始した。是豊の軍勢には備中の庄元資、備前の松田氏が味方として加わった。

 是豊が最初の攻撃目標として選んだのが、宮一族が立て籠もった「かしわ村」であった。

現在の柏
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 「かしわ村」は、JR福塩線戸手駅の北に位置する山間の小盆地で、今でも周辺の山頂や尾根上には夥しい城郭遺構が残っている。

 宮氏が、是豊に対する抗戦の場として「かしわ村」を選んだのは、そこが一族こぞって籠城するに相応しい面積を有していたことと、同地が備北と備南を結ぶ「野呂往還」の出口に位置していたことである。これは備後北部の奴可(庄原市東半)・神石の両郡を勢力基盤としていた宮氏にとって、その補給線が確保されることを意味し、大変有利なことであった。

 もちろん、「かしわ村」には宮法成寺尾張守も宮氏の一翼を担って籠城していたはずである。(続く)

掛迫城と宮法成寺氏(15)

 備後の応仁の乱は、現職の守護山名是豊対在地の国人衆という構図で戦われた。守護是豊が東軍に応じたのに対し、国人衆は是豊のの父であり、西軍の総帥であった山名宗全に味方し、備後の支配権をめぐって激しく争った。

 備後、安芸の両国で、東西両軍の攻防の的となったのは、安芸高山城と備後の「かしわ村」であった。

 高山城は、東軍に味方した沼田小早川氏の居城で、応仁二年(一五六八)六月、同氏の庶家で西軍に味方した竹原小早川氏の攻撃を受け、翌文明元年(一四六九)にはこれを撃退したが、同五年(一四七五)再び西軍方の攻撃を受け、その包囲は同七年(一四七七)まで続いた。

安芸小早川氏の本拠「高山城」
(1970撮影)
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 これに対して、、「かしわ村」の戦いは、東軍方が西軍に味方した宮一族を「かしわ村」に追い詰めて戦われた合戦で、この二つの戦いは、互いに密接に絡んでいた。

 応仁の乱に際して、宮一族は、東軍に応じた奉公方一番衆の左衛門大夫以外は西軍に応じ、応仁二年八月、幕府殿中に伺候していた宮教元、同政信は西軍内通の嫌疑で殿中より追放された。

 宮一族の備後の於ける活動が知れるのは、文明二年(一四七〇)に入ってからである。備中新見の金子衡氏の書状によれば、同年暮には「宮殿の備後下向」が備中にも伝わり、戦乱の拡大を予感させた(東寺百合文書)。(続く)

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