|
掛迫城と宮法成寺氏(14)
「渡邊先祖覚書」は言う、
「相国寺お花坊の大合戦に、法成寺尾張守方七郎次郎にて、□時彼の一類一所に候て家(渡邊)太刀を打ち、高名仕り候是豊(山名)様御感状今に之有り候…」
渡邊先祖覚書
意味不明のところもあるが、この合戦で同じ備後勢同士が敵味方に分かれ戦ったことが分かる。
ただ、ここで注意を要するのは、「法成寺尾張守方七郎次郎」とあることである。或いは、宮法成寺氏では当主尾張守は直接参陣せず、七郎次郎なる人物に兵を与えてこの戦いに参陣させたのかもしれない。鎌倉時代以来、家臣の手柄は主君の手柄とされていたからだ。
相国寺の合戦は、応仁の乱の山場となった戦いであったが、勝敗は決せず、戦乱は地方に広がっていった。各地にくすぶっていた家督争い、国人衆の守護に対する不満など、争いの種はそれこそ星の数ほどあった。
備後でも、応仁元年八月には早くも合戦の火蓋が切られた。西軍に味方した、山内新左衛門豊成(庄原甲山城主)の軍勢は世羅郡に南下し、世羅郡小世良で東軍方の軍勢を破った。西軍方の進撃は更に続き、文明元年(一四六九)二月には東軍に味方した杉原氏領内に侵入し、杉原苧原(福山市赤坂町)で東軍小早川氏の軍勢と衝突した。宮法成寺氏もこの情勢に応じて帰国し、西軍方の一翼を担って、東軍方国人衆の討伐に血道を上げていたに違いない。(続く)
|
備後の山城
[ リスト | 詳細 ]
|
掛迫城と宮法成寺氏(13)
応仁の乱は、応仁元年(一四六七)正月、上京の上御霊社に陣した東軍畠山政長の陣を西軍の同義就が襲撃したことで幕を開けた。この時、東軍の細川氏は将軍義政の命を守って動かず、政長はあっけなく負け、身を隠した。
本格的な合戦は、同年五月、東軍方の一色邸攻撃ではじまった。上御霊社の合戦で後れを取った東軍の主将細川勝元はひそかに全国に動員令を発し、圧倒的な軍勢で西軍方を叩き潰そうとした。
東軍優勢ではじまった大乱は、西軍方に味方した周防大内氏の上洛によって一変、西軍有利の状況となった。
こうした中で起ったのが相国寺の戦いであった。相国寺は周辺の幕府、内裏と共に乱の開幕と同時に東軍方が占拠し、東軍正義の象徴となっていた。
応仁元年十月、相国寺に立て篭もっていた武田信賢、細川勝之を西軍方が攻撃、一時はこれを占領した。その後再び東軍が奪回したが栄華を誇った相国寺の伽藍は焼失した。これが、大乱中最大の激戦「相国寺の戦い」であった。
寛政写本「備後古城記」掛迫城の項
宮法成寺氏の名が登場するのもこの戦いの最中であった。この時、相国寺には同じ東軍に属した備後山名是豊勢も籠っていた。この東軍勢に同じ備後の宮法成寺尾張守の手勢が突っ込んだのである。(続く)
|
|
掛迫城と宮法成寺氏(12)
結果、各大名国人の家では、「誰が家を継ぐか」が大きな問題となった。しかも、この時代、上から下まで「衆議」といった「世論」が重んじられていた。家の嫡子を決めるのも家臣たちの「支持」が重要だった。将軍家の場合も、四代将軍義持は死に臨んで誰を跡目にするか明言しなかった。その理由は、自分が指名しても幕府の宿老が認めなかったら意味がないと考えたからであった。
掛迫城本丸に建つ宮周防守の碑
よって争いの火種は全国津々浦々に存在し、一たび京都に戦乱の火の手が上がるや戦いは瞬く間に全国に波及して、首謀者たちにも制御不能な大乱となってしまった。
応仁の乱は、備後でも典型的な形で現れた。現職の守護山名是豊が父で西軍の首領となった山名宗全と対立し、東軍細川勝元に味方したため、国内の国人土豪はそれぞれの打算で東西両軍に味方し、勢力拡大に凌ぎを削ることになった。
戦いは、当初京都で行われ、東軍山名是豊、西軍同宗全から軍勢催促を受け、上洛して合戦に参加した。東軍には杉原氏一族、草戸の渡邊信濃守家などがそれぞれ手勢を率いて参陣した。西軍方は、和智、江田、山内の一族が山名氏の本拠但馬国に馳せ下り、東軍細川氏の分国丹波に侵入した。
宮法成寺氏の属する宮氏の一門は、奉公方一番に属した宮左衛門大夫以外は総じて西軍に属した。乱の勃発直後の応仁二年(一四六七)八月、幕府殿中に伺候していた宮下野守教元、同若狭守政信は西軍に内通しているということで、他の十人の奉公衆と共に幕府から追放された(『応仁記』)。(続く)
|
|
掛迫城と宮法成寺氏(11)
駅家町法成寺を苗字の地とした、宮法成寺氏が史上に本格的に登場するのは、応仁の乱に際してであった。
応仁の乱は、日本史上の中でも大変重要な戦乱であった。きっかけは畠山・斯波といった有力守護大名、将軍足利氏の跡目をめぐる争いで、時代を問わず見られる「お家騒動」であった。
この単純な「お家騒動」が大きな戦乱に発展したのは、相続法や土地制度など、社会の根底をなす秩序に大きな変化が起っていたからである。
本来、武家社会の相続は「分割相続」が原則であった。兄弟(女子を含めて)には親の財産が多少の大小はあっても等しく分け与えられ、嫡子と定められた子が「惣領」として一族を指揮した。
北から見た城の谷
ところが、分割相続を繰り返すと、所領規模が縮小し、御家人として幕府の奉公に耐えれなくなった。そこで、取られたのが子の内一人が嫡子として全所領を相続する方法であった。これを「嫡子単独相続」という。この相続法の変化は、大体、鎌倉時代の末期から南北朝を経て、室町時代の中期には社会の主流となった。しかし、この時代の嫡子単独相続は、後の江戸時代のように、能力の有無を問わず長男が相続するというような制度が確立していなかった。親が「器量の仁」と認めた子どもがたとえ末子であれ、嫡子として家を継いだ。他の兄弟は、家来並に「扶持」が与えられるのみで、所領を分け与えられることは少なくなった。(続く)
|
|
掛迫城と宮法成寺氏(10)
こうした古い形式の城は、或いは当時の武士団のあり方を示したものかもしれない。
例えば、安芸の有力国人小早川氏の居城高山城である。同城は南北二つの峯とその間の谷間を利用して築かれた山城で、現在でもそれぞれに多くの曲輪跡が残っている。しかし、曲輪のあり方は本丸を中心とした機能的な構造ではなく、それぞれの尾根上の曲輪は、各々が独立した山城としても存在しえた構造となっている。
安芸小早川氏の両高山城
この高山城(妻高山)に対して、戦国期に小早川隆景が築いた沼田川対岸の新高山(雄高山)城は、全く違う構造をしている。山頂の主曲輪群を中心に、各々の曲輪群は有機的に配され、近世の城郭のように本丸を防御する為に二の丸、三の丸が設置される構造となっている。
この二つの高山城は、それぞれの時代の小早川氏の在り方を示していると考えられる。古い高山城の曲輪群が並列して存在し、本丸の優位性が確立されていないのは、この段階の小早川氏が鎌倉以来の、半ば独立した庶子家を惣領家が統括するという古い惣領制の下にあったことを示している。それに対して、新しい高山城が本丸を中心とした曲輪群の階層性が確立しているのは、隆景が小早川氏を相続した段階で、反対派を粛清し、小早川家中の指揮権を掌握したためと考えられよう。
こうした目で、掛迫城を見ると、狭義の掛迫城は、「城谷」と呼ばれた広義の掛迫城の一部に過ぎず、城主が一族を「家中」として束ねる段階の前の、古い惣領制の段階にあったことを示している。
(続く)
|





