備後山城風土記

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備後の山城

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掛迫城と宮法成寺氏(9)
 
 掛迫城が今まで考えられた規模より、随分大きいものであったことは、近世の文献に記された「城名」からもうかがえる。
 
 旧福山藩内の最も基本的な地誌である『福山志料』はかけ迫城について、次のように記している。
 
「掛迫城 宮治部太輔勝岡(備後古城記)今コノ所ヲ城谷ト云」
 
 「城谷」が掛迫城の別名とすれば、城の縄張りからも推定されたように、城の正面は東の平野側より、この西の谷筋と考えた方がいいだろう。
 
 この考えが正しいとすると、広義の掛迫城は、この谷を含んだ規模雄大なものとなる。
 
西北の山頂から「城の谷」を望む
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 現在、掛迫城の西北の谷には、二つの溜池が築造され、それぞれ城が谷上池、同下池と呼ばれている。そして、この谷を囲むように、北側の山頂から二筋の尾根が西南に伸び、その東方の尾根のピークに狭義の掛迫城が存在する。
 
 残念ながら北側の山頂部には北部工業団地が建設され、今となっては城跡の遺構を探る手立てはないが、地形から見て、尾根上には曲輪跡が残っていたはずだ。
 
馬蹄形縄張りの典型、亀寿山城址
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 このように、山頂から両腕を広げるように谷を抱いた地形に山城を構えるのは、中世武士が好んだことである。備後南部では、同じ宮氏の亀寿山城(新市町)、今大山城(神辺町)がこの形式であり、備後北部でも、和智氏の南天山城や国広山城にこの形態が見られ総じて南北朝期や室町前期にさかのぼるような古い城に見られる築城法である。(続く)
掛迫城と宮法成寺氏(8)
この時作成した実測図によると、掛迫城は東北から西南に伸びた低い丘陵を、南北2箇所に設けた堀切で城域を画し、その間に大きな曲輪を三段築き、周囲に数ヶ所の腰曲輪を設けただけの簡単な構造の山城であった。
 焼けた瓦やモミはいくら探しても見つからなかった。曲輪は岩盤を削って設けられたようで、表土は浅く、数箇所に室町時代の土師器の破片が散らばっているのみであった。
 比高40メートルの低い丘の上に構えられた城とは言え、その斜面、特に南側は断崖状に麓に落ち込み、人を寄せ付けない。正に戦国の城塞であった。
 
掛迫城址図面
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 以後、この城跡にはことあるごとに足を運び、遺跡の確認を行なって来た。平成7年には「山城探訪」の事前調査で、平成18年には「福山古墳ロード」の案内板の設置作業で…。
 訪ねる度に新たな発見があった。城跡は南北2箇所の堀切の外側にも広がっていた。尾根を更に南に歩くと、掛迫古墳のあるピークから西南にも人工的に削平された曲輪跡があるようである。更に城の曲輪の配置を見ると、防御正面は東南ではなく西北の「城が谷」であった。これは何を意味するのか…。
掛迫城と宮法成寺氏(7)
 法成寺の地をはじめて訪れたのは、中学3年生の夏であった。当時、8ミリカメラで古墳や城跡を撮影するのに熱中しており、県史跡の山の神古墳を訪れたのが最初であった。山の神古墳は当時荒れに荒れており、古墳の北側から墳上に出る「トンネル」を通って石室に辿り着いた。このトンネル、何時誰が掘ったのか、今も残っているのか。一度確認したいと思っている。
 掛迫城址を訪ねたのは、それから2年あまり経った1971年の初冬のことであった。福山ユースドマップクラブという同好会を立ち上げ、20メートルの巻尺を持って、福山周辺の山城跡を手当たり次第調査に廻っていた頃である。
 城跡の存在は、『西備名区』などの江戸時代の地誌で知っていた。仲間5名で、旧国道182号線を東城別れの手前まで行き、倉神社や正福寺の前を通る旧道を北養護学校(現特別支援学校)まで進み、ここから右手に道を取り、掛迫集落に入った。
 
1971年の掛迫城址
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 城跡の場所は、集落の人に尋ねた。70くらいの老人であったが、親切に教えていたき、城跡を目指した。掛迫集落の西を北に登る道があり、稜線に出ると東西に走る山道にぶつかった。城跡は、この山道を50メートルほど西に進んだところにあった。最初は、城址の北を限る土塁と空堀を越えて切岸を攀じ登って本丸に到達した。
 
1971年の城址の様子、中央に石碑
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 南北40メートルほどの楕円形の平坦地で中央西に「宮周防守」と掘られた石碑が建っていた。我々は本丸に着くと、老人に教えてもらった瓦や焼けた米がないか血眼になってさがし廻った。城跡の位置を教えてくれた老人は、ここに「金の茶釜」が埋まっており、昔大勢の人が探しに来たが、瓦や焼けたモミしか出なかったと話していたからだ。(続く)
掛迫城と宮法成寺氏(6)
 先ず紹介したいのは、後世大庄屋門田家の屋敷となった中世の土居屋敷址である。門田家の広壮な屋敷址に入ると、右手に築山の跡があり、その向こうに高さ1、5メートルほどの土手がくの字上に北に延びている。中世武士の居館「土居」に典型的に見られる「土塁」の跡である。門田家は中世にさかのぼる家系を持つ旧家だが、この地に入ってきたのは近世初頭と伝わっている。江戸時代に土塁を巡らすような屋敷を構える必然性はないから、これは門田家が入る前に、この地に本拠を構えた名主(中世武士)の居館の跡に違いない。
門田屋敷の土塁
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 このような中世武士の居館と考えられる地形は、門田屋敷以外にも点々と残っている。そうした場所は、谷と谷に挟まれた低い丘陵の突端で、現在は屋敷や寺院、神社の境内地になっている場合が多い。そして、こうした古い屋敷地の周辺には中世にさかのぼる五輪塔が道路際や墓地の中に点在している。中世の名主たちの墓石と見ていいだろう。
 地名の中にも中世にさかのぼるものもある。かつて、備陽史探訪の会の出内博都氏(故人)の調査によると、法成寺には「門前」「竹ヶ端」などの中世武士の居館に由来する地名、「四日市」などの市場地名、「行信」「寄信」など、かつての「名」の存在を示す地名などが残っているという(注1)。(続く)
注(1)出内博都「地名調査雑感」(備陽史探訪の会刊『山城志』第10集)1991・4月
掛迫城と宮法成寺氏(5)
 
 駅家町の法成寺は、典型的な「谷田」地帯である。吉備高原からなだらかに神辺平野に落ち込む丘陵は、平野に接するところで襞条に枝分かれし、その間の谷に耕地が分布する。
 
法成寺の景観、右手前の池が「城が谷上池」
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 これらの耕地は、現在は江戸時代以降に築造されたため池によって灌漑されているが、中世に於いては、谷頭から流れる自然流水(天水)によって潤されていた。よって、その規模は、現在と比べてはるかに小規模なものであった。
 
 今、耕地の様子を見ると、水田の間に山林が点在しているように見えるが、かつてはその反対で、丘陵の間に小規模な水田が点々と分布する、山林の中に水田が見え隠れするといった景観であった。
 
 このような、谷田地帯は却って中世の武士団が本拠とするには好都合であり、その開拓も彼等中世武士によって行われることが多かった。その単位を「名」という。名は田畠・屋敷をひとまとめにした単位で、名主がその年貢を請け負って領主に差し出した。耕作は名主の手で行われることもあったが、下作人と呼ばれた零細農民が耕作を請け負うことも多かった。
 
 「名」は大規模なものは一郡規模のものもあり、こうした大きな名の名主が「大名」、数町単位の小さな名主が「小名」と呼ばれた。名主は中世に入ると侍身分を持ち、鎌倉殿の御家人になることも多く、大名、小名はその後豪族的武士団の格式を意味する言葉となった。
 
 こうした古くから開けた谷田地帯だけに、法成寺には至る所に中世の痕跡が残っている。(続く)
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