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掛迫城と宮法成寺氏(4)
次に、法成寺氏が宮氏の一族で、その宮氏も三吉氏の一門というこの系図の信憑性が問題となる。
藤原姓三吉氏系図
内容を検討すると、鎌倉時代から南北朝時代にかけての世系が詳しく記され、南北朝以降は歴代のみ、そして戦国期に入ると再び系図の内容が豊富になるという形態は、同じ備後の山内首藤家系図や他の東国武士団に普遍的に見られる形態で、系図の原型が作られた時期は、相当古いことが想像される。全く別の武士団と考えられてきた宮氏と三吉氏を同族とするこの系図を、この点だけから否定する向きもあるが、家紋に「吉」字を共有すること(注)、系図に出てくる法成寺氏が戦国期に「宮法成寺」として史料に登場するなど、宮氏と三吉氏には関連する部分もある。系図自体の検討は今後の課題としたい。(続く)
(注)「見聞諸家紋」
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備後の山城
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掛迫城と宮法成寺氏(3)
次に法成寺の地名で注目されるのは、系図の原型が中世前期にさかのぼると考えられる「藤姓三吉氏系図」に法成寺の地名を名字としたと考えられる武士の名前が登場することである。
藤原姓三吉氏の本拠比叡尾山
この系図は、江戸時代後期の「三次町国郡志」の「城主御続代記」に収録されたもので、鎌倉時代から慶長五年(1600)まで三次盆地を支配した藤原姓三吉氏の系譜が記され、それによると、三吉家の元祖兼範の次男兼秀の三男、「宮大夫」兼能の四男に「法成寺新次郎」秀政が現れる。この系図に登場する三吉家歴代では、応安七年の文書に登場する九代「三吉式部大夫」秀明から他の史料で実在を確認出来る(山内首藤家文書)。秀政は三吉四代信兼と同世代で祖父が次男、父が三男、自身が四男という位置づけからすると、ほぼ「建武の頃」とされる三吉家五代秀高の活躍年代に等しい。(続く)
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掛迫城と宮法成寺氏(2)
法成寺の地名の初見は、応安七年(1374)の奥書を持つ、油木八幡神社蔵の「大般若経」巻四一〇である。この奥書によると、同巻は、「応安七季甲、大祓十三日、備後岩成庄於法成寺仏摂寺住侶□□法師」が寄進したもので採筆は良盛という人物であった。
ここでいう「法成寺に於いて」を寺の名前と見る向きもあるが、その次に「仏摂寺住侶」とあることから、仏摂寺の所在した「岩成庄内の法成寺(地名)」とした方が良いだろう。
門田屋敷に残る土塁
岩成庄は史料上では「石成庄」と表記される場合の多い中世の荘園である。南北朝時代、足利尊氏が建立した天竜寺領として見え、「下村」「上村」「門田」などの地名が古文書に散見する。近世以降は深津郡上下岩成村という狭い地域の呼称となっているが、この史料に「岩成庄於法成寺」とあるように、神辺平野のほぼ西半分を占めた広大な荘園であった。『備陽六郡志』外編品治郡新山村の条によると、「慶長よりはるか後まで、神辺より新市までの間を岩成村といふ。新山は仁王堂より福盛寺までの山をいひしが、神辺より新市までの間を二十か村に分ち、当寺(福盛寺)の近辺高三百三十石余を新山村と」したという。(続く)
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掛迫城と宮法成寺氏
福山市の北郊、駅家町の法成寺は市内でも最も史跡に恵まれた地域である。先年、市の北部工業団地が造成された際、事前調査で出るは出るは、古くは縄文の遺跡から弥生時代の集落跡、古墳に至っては、数十基が確認され、計画の変更を余儀なくされたほどである。
法成寺サコ遺跡の石棺
中でも、破壊された正福寺裏山第1号古墳と狼塚第4号古墳は注目された。正福寺裏山第1号古墳は、径16メートルほどの円墳であったが、内部に排水溝を持つ竪穴式石室が確認され、内部から国内初という、珍しい連弧文縁四獣鏡が出土した。この古墳発掘で一番驚かされたのは、古墳の東側の尾根上で、多数の土抗墓・石棺墓が発見されたことである。これらの墓は、古墳に葬られた首長の下にあった集団構成員の墓と考えられ、古墳時代の一般的な墓制を知る大きな手掛りとなった(1)。
狼塚2号古墳は、丘陵頂部に築かれた終末期の横穴式石室を持つ円墳で、石室は凡そ神辺町の大坊古墳の二分の一の規模を持ち、その構造も同古墳と等しく、玄室と羨道がほぼ同じ規模を持っていた。このことは、大坊古墳や、新市の大佐山古墳を築いた被葬者の下のランクの首長も終末期の古墳を築いたことを示し、今後の古墳研究の指標となるものであった(2)。
狼塚第2号古墳
開発事業によるものの他、一般の郷土史研究団体である備陽史探訪の会が実施した掛迫第6号古墳の測量も注目される調査の一つである。同古墳は古く府中高校の豊元国氏を中心とした掛迫古墳調査団によって発掘調査され、全長46メートルの前方後円墳として報告されてきた(3)。ところが、埴輪、葺石など外部施設が無かったため、近年では円墳として紹介されることが多くなった。近年学会で定説化しつつある「前方後円墳体制」では、円墳と前方後円墳では古墳としての位置づけが大きく異なる。そこで、もう少し精密な実測図を作製し、この論争に決着を着けようとしたわけだ。市民を動員しての測量調査の結果、豊元国氏の作成した実測図は極めて正確なものであったことが確認され、合わせて行われた地中レーダーによる探査の結果、円墳よりも前方後円墳の可能性の方が高いことが報告された(4)。
奈良時代の古瓦が出土する門田屋敷
芦田川の支流、加茂川と服部川に挟まれた丘陵地帯である法成寺は、歴史時代に入っても注目される遺跡を残している。「岡の堂」と呼ばれた古瓦出土地がそれだ。現在門田家の邸内になっている同遺跡からは昭和26年大量の古瓦が出土し、奈良末期から平安期にかけて、ここに何らかの瓦葺の施設があったことが判明した(5)。一般にこの古瓦出土地を「法成寺址」とし、地名の起源に結びつけることが行われるが。地籍上の字名は「古江木」であり、寺院跡より古代山陽道の「駅家」跡とした方がいい。法成寺の地名が史料上で確認できるのは、中世に入ってからであり、「寺」という文字を寺院に結びつけるのはやや早計であろう。
(1)福山市教育委員会「加茂倉田遺跡発掘調査報告書」
(2)同「駅家加茂地区内陸型複合団地造成事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書」
(3)『芸備文化』第5・6号合併号「備後掛迫古墳」
(4)備陽史探訪の会「掛迫第6号古墳測量調査報告書」
(5)『福山市史』上巻
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草深城と岡崎氏(6)
渋川氏の山南支配は、周辺の国人土豪を被官に組織することによって行われた。渋川氏の被官となった者の中には木梨氏や高須杉原氏のように「国衆」としての家格を持つものもいて、渋川氏の門地が如何に高かったかを知ることができる(萩藩閥閲録六七)。
本丸跡に建つ寄の宮八幡宮
位置的に見て、草深城は渋川氏の時代も同氏の重要な城館として機能していたと思われる。先に述べたように、渋川氏は内陸部の三原市八幡町に本拠を置いており、山南や藁江といった沿岸部の所領を支配するためには海路が重要な意味を持った。これら沿岸部の所領支配は、「探題山」と呼ばれた尾道市吉和の鳴滝城を経由して行われ、その間の連絡は高須杉原氏など海に通じた被官衆によって行われた。草深城は彼等によって利用されたと見て良いであろう。
天正元年(一五七三)、渋川氏三代義満に子がなく渋川氏が断絶すると、一帯は毛利氏が直接支配することとなり、城は役目を終えた。
『西備名区』は岡崎氏の後の草深城主を河野氏とし、豊臣秀吉の四国攻めで没落した河野通直、同通春を挙げ、小早川隆景の援助によってこの地に居住したと述べている。河野通直は天承十五年(一五八七)竹原で亡くなっており、本人が直接この地に来たことはないだろうが、一族の者がこの地に土着したことは大いに考えられることである。
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