備後山城風土記

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備後の山城

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草深城と岡崎氏(5)
 
 鎌倉幕府の滅亡によって、大仏氏の山南支配は終り、同所は替わって足利氏の一族渋川氏の所領となった。
 
 渋川氏は足利氏の一族で、上野国群馬郡渋川保を名字の地とし、足利氏が天下を取ると共に、一躍大名の座に躍り出た武士である。
 
 山南が渋川氏の所領となったことが確認されるのは、観応三年(1352)六月二九日の渋川直頼譲状(賀上文書)で、この日、直頼は嫡子金王丸(義行)に下野国足利庄内板倉郷以下一二箇国二二ヵ所の所領を譲与した。この中に備後国御調別宮、同山田村と共に山南郷の名もあった。
 
 以後、渋川氏は戦国時代末期まで備後の所領を確保したが、なかでも、義行の後裔渋川義陸が本拠を備後国に移すと共に、同氏の本領としてその滅亡に至るまで確保された。
 
渋川氏の本拠小童城址(三原市八幡町)
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 備後渋川氏は本拠を三原市八幡町の小童城に本拠を置き、戦国の小大名として備後南部に影響力を持った。室町時代、九州探題を継承した名門であっただけに、備後に土着してからも「今探題」と呼ばれて、それなりに尊重された。大内氏や尼子氏の勢力が備後国に侵入してきても、渋川氏の門地は両氏を凌いでおり、義陸の跡を継いだ義正は大内、尼子の両氏を和睦させ、共に上洛することを画策している(石山本願寺日記)。
 
 この時期、草深城に誰が拠っていたのかは明らかではない。岡崎氏は伝承によると、延元元年(1336)、足利尊氏より石成庄内の地を拝領して、同地に本拠を移した。渋川氏と同じく岡崎一族も鎌倉幕府の滅亡によって、再び歴史の表舞台に立ったと見える。(続く)
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草深城と岡崎氏(4)
 
 前回紹介したように、鎌倉時代、一帯の支配者は北条氏の一族大仏(おさらぎ)氏であった(厳島反故裏経文書)。ただし、大仏氏は連署や評定衆などの幕府の重職に就いており、自身がこの地にやってきたとは考えられない。一族・内の者を代官として派遣したはずである。その一人が岡崎氏であったのではなかろうか。先に述べたように、岡崎氏は有力御家人三浦氏の一門であったが、和田合戦で敗れ、歴史の表舞台から姿を消している。だが全く亡んでしまったわけではない。一族の中には、北条氏の「御内人」となって勢力を温存したものもいた。現に、岡崎実忠の後裔と称する江良・倉光・石崎氏などは後に石成庄(福山市御幸町から駅家町一帯)に進出し、一族は戦国末期まで土豪として力を持っていた(毛利家八箇国時代分限帳など)。こうしたことから岡崎氏の来住は史実と見ていいだろう。
 
城址に建つ常夜灯
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 岡崎氏がこの地にやって来た頃、この城は深く入り込んだ入海の奥に浮かんだ小島であった。はっきりしたことは言えないが、城跡の南か西には港が存在したはずである。岡崎氏はこの城に拠って大仏氏の所領山南の管理にあたると共に、港に出入りする船舶の監視に当たっていたと見ていいだろう。(続く)
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草深城と岡崎氏(3)
 
 城跡を訪ねるには、まず沼隈町の中心部草深を目指す。福山方面から県道を進むと、やがてホールや旧沼隈町役場(現支所)のある町の中心に到達する。福山駅前からだと車で30分というところだろうか。「福山市沼隈支所入口」の交差点を左折、150メートルほど行くと美容院の手前に八幡さんへの参道があり、道なりに行くと境内駐車場に到着する。
 
城跡に建つ「寄の宮八幡宮」
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 山頂は南北に細長い平坦地となっていて、一番高いところに寄の宮の社殿が建っている。よく見ると、北に一段、南に一段の曲輪が築かれていたようで、現在それぞれ神社の施設が建っている。さらに、その東に一段下がって南北に細長い平坦地があり、これも城の曲輪として利用されていたようである。旧来の参道は北に位置し、旧県道に面して立派な石鳥居が建ち、石の階が境内に延びている。周囲は断崖となって人を寄せ付けず、中世の城郭としては格好の条件を備えている。
 
 城主として最初に名が出てくるのは岡崎氏である。『西備名区』によると、この城に拠った岡崎氏は、相模の大名として知られた三浦氏一門の岡崎氏で、健保元年(1213)五月の「和田合戦」に敗れた岡崎実忠がこの地に蟄居し、やがて勢力を得てこの地に築城したという。
 
 岡崎実忠は、実在の人物で、石橋山の合戦で名誉の戦死を遂げた佐奈田与市義忠の嫡男で、岡崎氏の名跡を継ぎ、与市左衛門尉実忠を称した。しかし、史実の上では、和田合戦で討死しており、この地に来たとは考えられない。岡崎氏の来住が史実とすれば、それは北条氏の一門大仏氏との縁を頼ってのことであろう。(続く)
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草深城と岡崎氏(2)
 
 地図で見ると、城跡のある丘は標高34メートルを測り、南北300メートル、東西150メートルの平野の孤立した丘である。だが、よく見ると、城跡のある丘から少し内陸部に入った辺りから、3キロ南の海岸までの、山南川沿いに開けた平野は近世以降の干拓地であることに気付く。城があった時代、この丘は深く入り込んだ入り江の奥に浮かぶ小島だったわけで、海賊城としては絶好の立地を占めていた。城跡を現在の地形で判断してはならない典型的な事例の一つだ。
 
寄の宮参道
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 城跡に鎮座する寄の宮八幡宮は、現在でも上・中・下山南と草深の産土神であるように、城は山南の歴史と密接に結びついていた。
 
 山南は鎌倉時代、執権北条氏の一族大仏氏の所領となっていた。鎌倉幕府の実権を握った北条氏は、各地の港湾を掌握することに熱心であった。経済を握ることがすなわち権力を維持する近道であったことをよく知っていたわけだが、大仏氏がこの地を獲得したのもその政策の一環であったろう。その前面の海岸は、鞆、尾道を結ぶ当時の重要な航路にあたっていた。(続く)
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草深城と岡崎氏
 
 海に近い所に残る中世山城跡を研究する場合、気をつけなければならないのは、周辺の地形の変遷である。平野に孤立する山城跡と思って調べていくと、周囲の平地は近世の干拓地で、城跡のある丘はかつての「島」であったりする。「島」と平野に孤立する山城では、城の由来や歴史を研究する際のアプローチは全く変わってくる。城の拠って立つ基盤が違うのだ。
 
 海岸に立地する中世城跡は「海賊城」といって、海賊衆が拠点とした城である。海賊衆の経済基盤は「海」から揚がる権益である。海賊衆にはそれぞれ「縄張り」があって、その縄張りを通行する船は「警固料」を払わなければならない。また、海賊衆の拠点は港湾に立地することが多く、港に出入りする船は彼等に「関銭」「帆別銭」という入港料を払わなければならない。その額は馬鹿にならないもので、大きな港湾の場合、年額数百貫から数千貫に及んだりする。経済が活発化すればするほど、時代が降れば降るほど、その額は増えるわけで、戦国時代、海賊衆は「沖家」と呼ばれて、陸の大名並の力を持った。
 
 近世の干拓地を取り払うと、海岸から数キロ離れた、今は全く内陸部になったようなところにも「海賊城」の跡が残っている場合がある。沼隈町草深の草深城がその代表だ。
 
草深城址付近
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 福山市街地から沼隈方面に行くと、山田、山南の地名があるように、二つの峠を越えて旧沼隈町の中心部草深に達する。草深城は、このかつての町の中心のやや東の、小さな丘の上に存在する。東の麓には市立千年小学校が建ち、城跡には「寄の宮」八幡宮が鎮座しているので、場所は簡単に分かるはずである。(続く)
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