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大門城山と岡氏(10)
大門の戦国譚で有名なのは津之下の光円寺の開基にまつわる伝承である。光円寺の開基立円は、元河野(藤間とも)光円という武士で、父は大門明知山の城主河野刑部左衛門光重であったという。光重は隣国笠岡の城主平(陶山とも)国時と境争論から戦いとなり、負けて光円の弟光明と共に戦死した。この時、光円は出陣の留守を守って城に居たが、父と弟が戦死したのを「あぢきなく」思い、出家して立円と名乗り、一寺を建てた。これが今に津之下に残る浄土真宗海雲山光円寺だという(三吉町の光明寺ともいう)。また、一説に光円寺の開基光円は野々浜村城主塩飽太刀之丞の男で、僧となってなって一寺を草創して実名を以って寺号とした、これが津之下の光円寺だともいう(「西備名区」巻之三十一深津郡津之下村、野々浜村、大門村の条)。
河野といい、塩飽といい代表的な海の豪族である。戦国期、「五ヶ」と呼ばれた福山市東南の沿岸部が当時海賊衆、或いは「警固衆」と呼ばれた海の豪族の支配下にあったのは事実と見ていい。
城址に残る空堀
しかし、彼等が大門の城山や明知山に拠ったとするのは、やや早計だろう。今は失われてしまった牛の首や防路の鼻、烏帽子山などの沿岸に立地した海賊城に拠っていたとするのが正しい。また、海賊衆と陸上の国人衆とは権益を異にし、明知山や城山に岡氏や藤井氏が居城した時期に、同時に烏帽子山などに海賊衆が拠点を構えたとしても矛盾しない。彼等は海から揚がる権益(関銭、帆別銭など)を手に出来ればよかったのである。河野(藤間、塩飽)氏の没落は、村上氏が笠岡に進出した永禄末年(1569頃)と考えていいだろう。
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備後の山城
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大門城山と岡氏(9)
土肥日露之進氏や大門郷土史研究会の調査によると、現大門町域には、大門城山と明知山城の他に3ヵ所の中世城跡が存在したという。
中でも立地、形状からして本格的な山城であったと推定されるのは烏帽子山城である。大門城山の西南わずか500メートルに存在した城跡で、現在銀河学園の建設によって破壊され往時の面影はない。五箇八幡の境内となっており、造成工事の事前調査によって多量の中世土器が出土し、ここに何らかの施設があったことが確認されている。
大門地区山城分布図
旧大門湾は内陸に深く湾入した入江で、古くから港湾として利用されていたため、船舶の出入りを監視するための「海賊城」が存在した。湾口の東に存在したのが「防路の鼻」の砦、西に位置したのが「牛の首」の砦であった。いずれも近世以降の干拓によってほとんど遺構を残していない。
この地の港(現在「津之下」の地名を残している)を支配した者は、湾口に牛の首、防路の鼻、港の直上に烏帽子山の城を築くことによって外敵の侵入を防いだ。
こうした海賊城の存在は、大門の支配者が内陸部の国人ではなく、「海賊衆」と呼ばれた海の豪族であったことを示している。
このことは、在地に残る伝承が裏付けている。(続く)
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大門城山と岡氏(8)
景勝の名が、隆景関係の文書・記録に現れないのは、或いは、皓玄との戦いで戦死した為かもしれない。『福山志料』によると、大門湾には「ホテノ渡」というところがあり、この地で合戦があった時、志摩守がこの渡りで弓を射られて死んだと伝える。言うまでもなく、その合戦とは皓玄との戦いで、志摩守は善戦空しく討ち死にし、以後歴史の闇に埋もれてしまったのかもしれない。
坪生要害「清水山」
皓玄との戦いは、最終的には乃美賢勝の勝利に終わった。天文十六年(1547)四月、小早川勢は、明知山から北西2キロの清水山で理興の兵と戦い、これを破った。これが有名な「坪生要害」の合戦で、小早川勢が本陣を置いたことから「幕山」の地名が生まれた。皓玄との戦いは、天文十六年四月までには決着が付き、小早川勢の坪生進軍となったものであろう。或いは坪生要害に立て篭もって小早川勢と戦った理興の部将こそ藤井皓玄であったのかも知れない。
神辺城をめぐる戦いは、天文一八年(1549)九月、山名理興が城を棄てて出雲に逃走したことによって幕を閉じた。乃美賢勝の大門在城も合戦の終了と共に終り、大門城山も賢勝の退去とともに使命を終え、廃城になったものと考えられる。(続く)
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大門城山と岡氏(7)
神辺城の山名理興と大内・小早川の連合軍が大門の地をめぐって激しく争ったことは、江戸時代の文献からも知ることが出来る。
『福山志料』などによると、付近には今回紹介した大門の城山と、もう一ヶ所明知山に城があり、城主藤井能登守入道皓玄の名を伝えている。
藤井皓玄は山名理興の「二番家老」として知られ、理興から命ぜられてこの地の守備に当たった人物と見ていいであろう。
城山より明知山を望む
明知山は、大門城山から東北約1キロに位置する中世城跡である。標高は大門城山より百メートル高い181メートル。土肥日露之進氏によれば、一の丸、二の丸の平坦地があり、昭和初年までは飲料用の井戸もあったと言うが、現在は破壊されて僅かな平坦地を残すのみとなっている。
明知山を乃美賢勝の拠った城と見る向きもあるが、賢勝は先ず大門城山に足場を築き、皓玄と戦ってこれを破り、明知山に本陣を移したとした方がいいだろう。
大門城山の城主と伝える岡志摩守景勝は、乃美氏の城代として派遣され、神辺合戦で小早川勢の兵站を担った人物と見ていい。「小早川文書」などには見えない人物だが、岡氏は元就が隆景に付けた毛利家の家臣で、与三右衛門尉元栄は永く隆景の股肱の臣として活躍した。景勝はおそらくその一族で、隆景から「景」の一字を拝領して景勝と名乗ったものであろう。(続く)
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大門城山と岡氏(6)
乃美小太郎は「賢勝」といい、小早川氏の一族で、後に小早川隆景股肱の臣として大活躍した人物である。この文書には年号がないが、同日付で義隆の重臣が連署で賢勝に宛てた書状(浦家文書十四号)には「天文十五年十二月二二日到」とあり、天文十五年(1546)のものと判断できる。「去年四月」とあるから、小早川氏が「五ヶ」に一城を築いたのはその前年、天文十四年四月だったことが判明する。
城址から見た大門の風景
賢勝がこの地に派遣された天文十四年(1545)は神辺城の山名理興の旗色が次第に悪くなってきた時期である。前年までは各地に出兵して大内方の国人衆を脅かした理興であったが、同年七月、理興救援のため南下した尼子軍が備後布野(三次市布野町)で毛利勢に阻止されると守勢に転じ、大内勢を城下に迎え撃つ情勢となった。
当時、理興と同じく尼子に組した周辺の諸勢力は神辺城北方の今大山城に宮氏、西方の備中鴨方に細川氏がいて、理興と連携して大内・毛利勢に当たろうとしていた。神辺城南方の「五ヶ」は理興の柔らかい「脇腹」にあたり、ここに「海路」に通じた竹原小早川氏に一城を築かせ神辺城攻略の前進基地にしようとしたのはまことに時宜を得た作戦であった。しかし、篭城した乃美賢勝にとっては生易しい戦いではなかった。その様子は大門城山をはじめ現地に残された中世山城跡や、江戸時代に記録された伝承からも知ることが出来る。(続く)
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