備後山城風土記

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備後の山城

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大門城山と岡氏(5)
 
 天文十二年(1543)の暮からはじまった「神辺七年の合戦」で、小早川氏が当時「五ヶ」と呼ばれたこの地方に一城を構えたのは前に述べたように事実である。その証拠が左の文書だ。
 
「外郡の内五ヶの事、無主たるの条、竹原方に対して預け遣わさるべく候、然らば彼の在所に於いて一城これを執り付け、堅固に相抱えらるべきの由、家来老者中に対して申し渡さるべく候、彼の衆の事、海上通路輙わつべくの条、其の心を得られ、分別候様、これを申し与えらるべき旨に候、恐々謹言
八月七日        興滋(花押)
              隆著(花押)
              隆満(花押)
 弘中三河守殿    」
 (小早川家証文四三四号)
 
 「家来老者中」に申し渡すようにとあるのは、当時竹原小早川家を継いだ元就の三男隆景は「徳寿丸」と呼ばれた元服前の少年で、実権は彼等「老者中」が握っていたためである。
 
本丸の様子
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 大内氏は、大門を含む「五ヶ」を竹原小早川氏に預けて一城を「執り付け」させ、神辺城攻略の足掛かりにしようとしたわけだ。そして、この作戦が実行に移されたことを示す文書が、左の大内義隆書状(浦家文書八号)である。
 
「去年四月以来在城、辛労察せしめ候、当時其の境心元なきの間、油断あるべからず候也、謹言
十二月二二日       義隆(花押)
    乃美小太郎殿」
(続く)
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大門城山と岡氏(4)
 
 神社を左手に見て一気に登ると広い平坦地に出る。本丸跡だ。東西30メートル、南北15メートルはあるだろうか。やや西に崩れかかった祠が侘しくたっている。本丸を突っ切り、更に進むと馬の背のようなやせ尾根に出、道は一旦落ち込み、土手のような高まりを越えて下っていく。ここは当時の山城用語で「尾首」と言い、城の弱点の一つで、防備が厳重に施された場所である。一旦落ち込んだ場所が「堀切」、土手のような高まりが「土塁」で、人工的な高低差を造って敵の侵入を防いだところだ。良く見ると、堀切には真ん中の部分だけ削り残して人が通れるようにしてある。これは「土橋」と言って、わざと一部を通れるようにして、ここを通る敵兵を城内から「狙い撃ち」しようとした施設である。
 
本丸を望む
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 本丸から東にも三段の曲輪跡が残っている。してみると、本丸に入る手前の、奥に土塁のある小さな平坦地は大手曲輪の跡であろうか…。
 
 南から九十九折れにここに取り付いた大手道はここから城内に入り、東に築かれた曲輪群の下を通って本丸に至る。こうすると、大手曲輪は本丸と東の曲輪から眼下に俯瞰出来、もし敵の侵入を許しても、上からの集中射撃(当時は弓と礫だが…)で敵を撃退することも可能だ。           
 こうした高所の曲輪、櫓から防備された大手曲輪を「枡形」或いは「馬出し」という。その最も発達した姿は、福山城や広島城で見ることが出来る。大門の城山は、規模的には小さなものだが、城郭の基本的な諸要素をそろえた典型的な山城と言える。是非一度訪ねて欲しい。(続く)
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大門城山と岡氏(3)
 
 大門の城山は「城の段」とも、「枝広城」とも呼ばれる。標高90メートル足らずの小山で、人里近いため、登り口は数ヶ所ある。一番分かり易いのは真言宗上之坊の門前から登るコースであろう。
 
 徒歩だと、JR山陽本線大門駅を利用する。駅の北口を北に300メートルほど歩くと、広い道路に出る。大門から幕山方面に通ずる幹線道路で車の往来が激しいので気をつけて欲しい。この道を幕山方面に歩いていくと、左手にかつて酒蔵だった大きな建物が見える。この建物を目指して川沿いの道を北に進むと、右手に池の土手、左手に寺の山門が見える。上之坊だ。城址はこの寺の西の小高い山の山頂にある。
 
 登り口は山門手前の墓地の西にある。はっきりした登り口なのですぐ分るだろう。
 
「真言宗上之坊」登り口はこの左手にある
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 この道は本来の登城道ではなく、上之坊の「奥の院」の参道として設けられたもの。道なりに登って行くと、やがて視界が開け、鉄骨作りの「仏塔」が見えてくる。上之坊の奥の院だ。更に登って行くと、正面に稲荷神社など三神を祀った東西に細長い建物が見えてくる。良く見ると、その手前に平地があり、土塁らしき高まりがある。城址に到達したのだ。ここまで私の足で歩いて10分くらいであろうか。本庄町の高崎城址と並んで、福山市内では最も手軽に楽しめる中世の山城跡である。(続く)
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大門城山と岡氏(2)
 
 良港に恵まれたこの地は、理興と同じく尼子方に組した備中細川氏、遠く尼子氏に好を通じた京都の細川氏綱と神辺城を結ぶ中継地として重視され、真っ先に大内方の攻撃を受けることとなった。
 
 大内氏の先鋒となって、この地に上陸したのは、竹原小早川氏であった。
 
 天文一三年(一五四四)八月、大内氏は、五箇庄が「無主」であるという理由で、これを竹原小早川家に預け、この地に「一城」を築き、兵を入れるように命じた(1)。無論、同庄が無主の地であるはずはなく、敵対した山名理興の所領を味方の部将に与え、切取り次第自己の所領とすることを認めたもので、竹原小早川氏がこの地を実際に支配するためには、実力で理興の兵を追い払い、占拠する必要があった。
 
 竹原小早川氏の軍勢が実際に大門湾に上陸し、この地を占拠したのは、天文十五年(一五四六)に入ってからのことと思われる。当初安芸に侵入し、毛利小早川の軍勢と干戈を交えた山名理興も、同年に入ると守勢にまわり、領内に敵の侵入を許すこととなった。
 
手城」の文字の見える古文書
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 沿岸部から神辺城を目指したのは、毛利家から養子隆景を向かい入れたばかりの竹原小早川氏であった。同氏は鞆に本陣を置いて、先ず手島(現在の手城町古城山)を攻略して、ここに番兵を入れ、南方から神辺城を目指した。大門の城山が合戦の舞台となったのは、丁度この頃のことであった。
注(1)「小早川家文書之二」 小早川家証文四三三号
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大門城山と岡氏
 
 福山市の東南に位置する大門町は、今でこそ日本鋼管の誘致によって海は埋め立てられ、内陸の町になってしまったが、かつては波静かな入海(大門湾)に臨んだ海辺の村であった。
 
大門城山から見た大門湾
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 「大門」の地名は、この入海に浮かんだ二つの小島に由来するという。現在の大門駅辺りから南を望むと、右手に春日大明神の鎮座する亀山、左手に厳島神社の建つ鶴山が湾口の左右に、あたかも門柱のように並び立ち、これが地名の由来になった。
 
 歴史は古い。現在の国道が引野に越える低い峠の手前には、縄文時代の貝塚遺跡として有名な「大門貝塚」が所在(現在消滅、記念碑が建っている)、北に屏風のように切り立つ山塊の麓には古代の製塩土器である「師楽式土器」の破片が散布し、古くから開けた地であったことを示している。
 
 中世、一帯は坪生庄から分離した「五箇庄」に含まれていた。荘園領主は判然としないが、現在の大門町大門、野々浜、津之下から引野町がその範囲と考えられ、手城は「五箇の手島」と呼ばれた小島があるのみで、広漠たる海原が広がっていた。
 
 戦国時代になると、この地は神辺城の後背地として枢要な位置を占めることとなった。神辺城主山名理興は、天文一二年(1543)春、大内氏を裏切って尼子方となり、以後、同一八年(1549)九月、理興が城を捨てて出雲に逃走するまで、一帯は戦乱の巷となった。(続く)
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