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天文22年(1553)4月3日、備後・安芸に激震が走った。備後国三谷郡旗返山の城主江田玄蕃助隆連が大内を裏切り、尼子に味方したのだ。
当時の文書は云う
「江田玄蕃助隆連事について、雲州一味として去る三日現形…」
備北の天地を揺るがせた江田合戦の始まりだ。
隆連の居城「旗返山城」は、備後の戦国史で度々大きな歴史の舞台となった山城だ。
江田氏の居城「旗返山」
江田氏は、和智氏と同じ武蔵広沢氏の一族である。
鎌倉末期、広沢氏の庶子が兄弟で備後にやって来た。
兄が三谷郡の江田に居館を構えて「江田氏」を称し、弟が和智に住んで和智氏となった。
江田・和智の両氏は戦国期になっても同族意識を持ち、時には「両広沢」と呼ばれて威力を振るった。
江田氏が三谷郡東南部の三若(三次市三若町)の旗返山に本拠を移したのは室町時代に入ってのことである。
城名は同時代史料に既に「江田旗返」と見え、当初からの名前である。本来、旗返には何か由来があったはずだが、今わ失われて不明だ。
旗返の名が大きく登場するのは応仁の乱に際してであった。
文明七年(1475)夏、備後地方は東西両軍の合戦で坩堝のように沸き立っていた。東軍山名是豊が大軍を率いて備北に攻め込み、西軍方の山内氏の甲山城と江田氏の旗返山を取り囲んだからだ。
江田氏の端城の一つ「笠城山」
合戦の帰趨は意外なところで決まった。
東軍から西軍に寝返った毛利豊元(元就の祖父)が後詰として江田繁ヶ峰に出陣し、旗返山を攻撃中の山名頼忠、小早川の軍勢を切り崩すと、東軍方に動揺が走り、甲山城を攻撃中の是豊軍は総崩れとなって、石見に逃走した。
毛利氏はこの功績によって西軍から備後三千貫の所領を与えられ、以後備後の政局に関係を持つことになった。
隆連の「現形」は、甲山城主山内隆通の誘いによる、と言われて来たが(陰徳太平記など)、最近新たな古文書(坪内文書)の発見によって、尼子氏が直接働きかけたものであることが分った。
旗返山城は毛利氏の本拠吉田郡山城から五里しか離れていない。いわば元就のわき腹に擬せられた刃だ。
危機を感じた元就は迅速な反応を見せた。
毛利勢によって全滅した「高杉城址」
直ちに出陣した元就は旗返山南方の出城「寄国固屋」を攻略、南方を固めるや、江田氏の北方に勢力を持つ三吉氏を味方に着け、更に泉の「萩ヶ瀬」で南下する尼子軍を撃破、7月23日、隆連の臣祝甲斐守の守る高杉城を攻略、尼子晴久の在陣する甲山城と旗返山の連絡を絶った。
こうなると、隆連にはもう施すすべがなかった。隆連は10月まで旗返山に籠城したが、ついにたまりかね城を棄てて、甲山城に逃走、合戦は毛利氏の勝利に終わった。
隆連のその後は明らかでないが、こうして鎌倉以来の名門江田氏は滅亡した。
元就は恩賞として旗返山城を要求したが、大内氏の実権を握っていた陶晴賢はこれを許さず、腹心の江良房秀を城代として入れた。この晴賢の処置が元就を怒らせ、後の厳島合戦の導火線になったことは余りに有名である。
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備後の武将
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広島県三次市吉舎町の大慈寺に和智氏実の肖像がある。
今は市立吉舎歴史民俗資料館に寄託されているが
肖像というよりも、禅僧のそれである「頂相」といった方がいい。
和智氏実肖像
氏実は備後和智氏の五代目で、仏通寺の開山愚中周及の高弟
宗綱を招いて大慈寺を建てた。
ある人が氏実の肖像を見て、「やはり武士の面構え」と言ったが同感
とわずがたりの著者二条が滞在した和智館跡
備後和智氏は武蔵広沢氏の庶家で地頭代として備後に土着した。
「とわずがたり」の著者二条がその館に滞在したことで知られ
「日々男女を打ち苛む悪行深重」の武士と語られた。
五代を経て、自らの考えで仏通寺派を選ぶとは、進歩したものだ。
戦国時代和智氏の居城だった南天山城跡
更に四代を経て、豊郷の時代には、尼子の大軍が城下に押寄せた。
「和智細沢山合戦」だ。
そして、その子誠春は元就によって宮島で殺された。
乱世の武士たちにとって、寺はひと時の安らぎ場所であったに違いない。
大慈寺観音堂「円通閣」
誠春の子元郷は元就に忠誠を誓って和智氏は滅亡を免れた
この観音堂は元郷が父の死の直後(1569)に再建したもの
おそらく、父の菩提を弔う意味があったと思われるが、
父の死が不慮の死であったため、その文字は無い
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備後国衆福田氏
津山市上横野の新龍寺の棟札に「時地頭備後国住福田三郎右衛門尉」とあるのは、備後国人福田盛雅が当時(永禄十二年)津山盆地北部の上横野一帯の領主であったことを意味する。地図で確認すると、盛雅の居城枡形山は、この寺の西北3キロに位置する。
枡形山は、標高642メートル、麓からの比高400メートルに達する峻険な山城だ。小早川隆景の築城と伝えるから、盛雅は、隆景の代官としてこの城に入り、一帯に睨みをきかせたに違いない。
国人は「国衆」ともいう、国司・守護など京下りの支配者に対して、その国地付きの有力者を意味する言葉で、多くは鎌倉時代の地頭・庄官の後裔である。
国人は在地に根付いた権力者だけに、山城だけで無く、多くの史跡を残した。福田氏も同様である。
利鎌山城の本丸から眼下に俯瞰できる福田の八幡神社は福田氏が崇敬したお宮だ。
福田の八幡神社は「亀山八幡宮」とも呼ぶ。社伝によると、後花園天皇の寛正元年(1461)春、「四郎」というものが、「吾を祭祀して、汝が姓を竹安と名乗るべし」という八幡神の神託により、「鳶が塚」というところに一社を建てたのが起源と云う。その後、利鎌山城主福田遠江守盛雅がこの神を信仰して祠を亀山に遷し、九尺四面の社殿を造営して「神田」を付し、四郎四世の孫又五郎を神主とした。
また、八幡神社から東北1キロの「福田地」にある「福性院」も福田氏有縁のお寺だ。現福性院の旧跡を「福田寺」という。その名の通り、地名をそのまま寺号とした由緒ある寺である。今は失われた享保十年(1725)銘の銅鐘に、「中世、福田遠江守盛政、武門の擁護を託し、廃址を披く」とあって、この寺が福田氏の菩提寺であったことがわかる(備陽六郡志)。
現福性院から北に五百メートルほどの山際に、福田一族の墓石と称されるものが残っている。中世末期の五輪塔で、山城主に相応しい石塔だ。
亀山八幡神社を氏神とし、福田寺福性院を氏神とした姿は、在地の権力者「国人」にふさわしい。利鎌山城主福田氏は、西隣、鳥の奥城主有地氏と同じく、備後の国人、国衆と見て間違いない。
中世後半の地域の歴史は、こうした国人たちの興亡によって彩られる。彼らは周囲の国人と勢力争いを繰り広げると共に、領内の開発を進め、神社・仏閣を保護して、地域の支配者に成長した。
戦国時代、美作枡形城主福田三郎右衛門尉盛雅は、間違いなく備後の「国人」であった。では、盛雅はなぜ美作で活躍することになったのか…。有地隆信に滅ぼされたという福田遠江守は盛雅であったのか…。(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載)
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美作枡形城主福田三郎左衛門尉盛雅
福田三郎左衛門尉「盛雅」で問題になるのは、この人物の活躍が永禄・天正年間に至っても見られることだ。しかも美作の城主として…。
福田盛雅について、「日本城郭大系」13広島・岡山版の津山市医王山城(岡山県津山市吉見)のところに、次の記載がある。
「時は移り、永禄九年(1566)に出雲の富田城は毛利氏によって落城し、尼子氏は滅んだ。そして、天正年間(1573〜92)に入って、美作は毛利氏と宇喜多氏が対峙することとなった。この時、医王山城は毛利方に属していて、枡形城主福田盛雅が預り、毛利輝元は在番衆として湯原春綱を送っていた。天正八年(1580)に宇喜多氏は医王山城を攻撃したが、湯原春綱・小川右衛門兵衛尉元政・塩屋元貞は宇喜多方への内通者を出しながらも三の丸を死守し、篭城したといわれる。このため宇喜多勢は撤退した。しかし、天正十年(1582)に毛利氏と羽柴(豊臣)秀吉の和議により、美作は宇喜多領に属すこととなった。ほどなく本城も開城したものと思われる。(下略)」
盛雅が籠城した医王山
また、巻末の城址一覧の所にも、「枡形城 苫田郡鏡野町香々美藤屋 小早川隆景が築城。永禄年間、福田勝昌が入城。天正七年、毛利・宇喜多氏の攻防戦。」とある。
美作枡形・医王(祝)山両城に於ける福田盛雅の活躍は史実である。
「先ず兵糧の儀、追々枡形に至り指し上げ候の間、お心安んずべく候、毎事福 三(福田盛雅)相談ぜられ、是非当城の儀(医王山)此方てだて待ちつけられ、(天正8年6月19日付小早川隆景書状)」
医王山城の石垣
「何ヶ度申し候ても当城(医王山)堅固御覚悟比類なく候、此の表御出勢の儀、油断無く相催し候、其の段盛雅(福田)江申し入れ候、其の表御手立ての儀、程あるべからず候、御加勢御待ち付け肝要に候(天正8年9月十四日付毛利氏年寄連署書状)」※(「閥閲録」五十一より)
史料は、枡形城主福田三郎右衛門尉盛雅が援軍の小川元政・湯原春綱等と共に、寄せ手の宇喜多勢と悪戦苦闘する様子を伝えている。
激戦となった医王山城の尾崎丸
問題は、この美作枡形城主福田盛雅と、備後国芦田郡福田利鎌山城主福田氏との関係である。「福田」は、さほど珍しい名字ではない、両者は全く別の家系の可能性もあった。
枡形城の福田氏が備後の出身であったことは、意外な史料の出現で明らかになった。
「東作誌」に収録された次の史料がそれだ。
清居山新龍寺棟札
「永禄十二巳巳十二月十九日願主権律師重明
奉造立仏壇成就時地頭備後国住福田三郎右衛門尉代官寺岡備前守諸旦那繁昌処」
この史料が証明したのは次の一点、永禄十二年(1569)、新龍寺の所在する旧美作国東北条郡北高田庄上横野村、現在の津山市上横野一帯の領主(地頭)は、備後国の国人福田三郎右衛門尉であった、という「事実」だ。(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載)
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謎の武将福田盛雅
福山市内有数の規模と構造を持つ利鎌山城、城主の権勢も相当のものであったはずだ。
城主が在名「福田」を名字としていたことは間違いない。宮原直倁の編んだ「備陽六郡志」外編、芦田郡福田村のところに、「古城二箇所 欠平 利鎌又戸鎌 両所ともに城主 福田遠江守 尼子毛利の節の事なるへけれとも、いつれの幕下といふ事しらず。瀬来伊賀、塩飽十次郎、市善次郎左衛門などというもの、遠江守の家臣なりしとぞ。其の屋敷跡、今に言い伝えて、アサとなれり。岡田氏の者あり、是家臣の末也とそ」とあり、福田村の古城、欠平、利鎌両城の城主は福田遠江守であったと記している。
福田遠江守が造営したという亀山八幡(芦田町福田)
福田遠江守の名前は「盛雅」であったようだ。「備後古城記」芦田郡福田村のところに、「利鎌山(戸かま山とも)福田遠江守藤原盛雅」とある。
福田盛雅は実在の人物だ。吉備津神社蔵の西国巡礼納経冊に、「大永八戌子年(1528)九月吉日 福田遠江守藤原盛雅」とある。おそらく「備後古城記」の記事はこの納経冊から取られたのであろう。
また、高須杉原氏の家伝文書に、この頃のものと推定される福田三郎右衛門尉盛雅の書状がある。「民部卿」に宛てて、「彼の在所の儀」について異存がないことを述べたものだが、文中に「正法寺」「温井取次を以て」とあるところから、同じく高須杉原文書にある年不詳九月二七日付宮政盛書状(正法寺御同宿中宛)、同じく七月十日付宮實信書状(高須元盛宛)と一連のものだ。
宮実信花押(永末文書) この一連の文書群は、永正初年、備後で勃発した木梨杉原氏と備後守護代山内氏との対立抗争事件に関連して、山内氏に味方した備後の実力者宮政盛、同實信が高須杉原氏に「三抱村」代官職を与えたものである。
盛雅がこの件に関して如何なる利害を持っていたのか不明だが、「民部卿」「正法寺」が宛所になっているのは注意を要する。実は「民部卿」「正法寺」は、備後在国の関係者ではなく、京都南郊にある、「王城鎮護」の霊場、石清水八幡宮の「坊官」である。
要するに、これら一連の文書が発せられたのは「備後」ではなく、「京都」であったのだ。
伝福田氏墓石
とすると、福田盛雅、宮政盛は共に京都に居たことになるが、戦国乱世の時代、備後の諸城主が京都に滞在することがありえたのか…。「ありえた」のである。しかもその年代は、木梨氏と山内氏が争った時期とぴったり一致する。備後の国人が大挙して上洛したのは永正五年(1508)のことだ。この年周防の大名大内義興は前将軍足利義稙を将軍職に復位させるために大軍を率いて上洛した。この軍勢の中に宮政盛、同實信がいた。福田盛雅もこの軍勢に属して上洛し、しばらく在京したと見て間違いない。
そして、木梨氏と山内氏が、毛利・小早川氏の仲裁で和睦したのは永正九年(1512)のことだ。これら一連の文書が作成されたのはこの頃に違いない。そうすると福田盛雅は、初め「三郎右衛門尉」を称し、のち「遠江守」を名乗ったことになるが、果たして如何に…。(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載より)
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