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伯州の神辺殿、杉原播磨守盛重(上)
 福山地方出身の戦国武将で、一番光彩を放ったのは山手銀山城主を振り出しに、神辺城主として備後南部を支配し、更には伯耆国(現鳥取県西部)尾高城主として山陰にも隠然たる勢力を持った杉原 ( すぎはら )盛重 ( もりしげ )である。盛重は神辺城主でありながら、伯耆尾高城主を兼ねたことから「伯州の神辺殿」と呼ばれ、毛利の前線司令官として、山陰各地で尼子や秀吉の軍勢と対峙した。中でも尼子十勇士の筆頭山中鹿助幸盛との確執は有名で、当時の文書にも「盛重と鹿助、仲悪う候」と出てくる。鹿助のライバルとしては、元就の次男吉川元春が挙げられることが多いが、実は、盛重こそが鹿助の真のライバルであった。
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山手銀山城跡
 盛重の出自については異説もあるが、山手町に高く聳える銀山城の杉原氏の出身、という伝えが正しいようである。銀山城の杉原氏は、杉原氏の有力庶家、尾道市木梨の木梨杉原氏の別れで、室町時代後期、盛重の祖父と伝えられる匡信が、木梨の家城から山手銀山城に本拠を移したことに始まる。そして、当時備後南部に大きな勢力を持った神辺城主山名理興の支配下に入り、その重臣として神辺城に出仕した。丁度、東海地方で信長・秀吉・家康という後に天下を取る英雄達が生まれた頃である。
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神辺城跡
 しかし、伝えられる系図によると、盛重は直ちに銀山城主になるべき人間ではなく、兄がいて、病弱な兄の「陣代」として各地で戦功を挙げ、次第に頭角を現していったようである。中でも神辺城を巡る合戦では抜群の功績を挙げ、これが敵方の吉川元春の目にとまり、出世の糸口となった。
 
 弘治3年(1557)春、毛利氏に帰順していた山名(杉原)理興は、神辺城中で死去した。理興には跡を継ぐべき男子はなかった。毛利氏の首脳部で理興の「跡目」が問題となった。小早川隆景が、「理興の一番家老杉原興勝こそ、人物識見ともに理興の跡目にふさわしい」と述べ、これが結論となりそうになった。この時、それまで黙っていた吉川元春が口を開いた。
 
「家老の末席ではあるが、杉原盛重こそ神辺城主にふさわしい」「自分は盛重のような勇猛な武将を部下に持ちたい…」
 
これで、会議の流れが、ガラッと変わった。
 
神辺城主杉原播磨 ( はりまの ) ( かみ )盛重の誕生である。
 
 
 盛重は、吉川元春の強い推挙で神辺城主になることが出来た。このことから他の備後南部の諸城主が小早川隆景に従ったのに対し、只一人、吉川元春の配下として山陰で活躍することになるのである。(田口義之「クローズアップ備陽史」より)

備後福田氏の興亡(5)

利鎌山城と福田氏(その五)
 津山市上横野の新龍寺の棟札に「時地頭備後国住福田三郎右衛門尉」とあるのは、備後国人福田盛雅が当時(永禄十二年)津山盆地北部の上横野一帯の領主であったことを意味する。地図で確認すると、盛雅の居城枡形山は、この寺の西北3キロに位置する。
 
 枡形山は、標高642メートル、麓からの比高400メートルに達する峻険な山城だ。小早川隆景の築城と伝えるから、盛雅は、隆景の代官としてこの城に入り、一帯に睨みをきかせたに違いない。
 
 国人は「国衆」ともいう、国司・守護など京下りの支配者に対して、その国地付きの有力者を意味する言葉で、多くは鎌倉時代の地頭・庄官の後裔である。
 
 国人は在地に根付いた権力者だけに、山城だけで無く、多くの史跡を残した。福田氏も同様である。
 
 利鎌山城の本丸から眼下に俯瞰できる福田の八幡神社は福田氏が崇敬したお宮だ。
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福田氏の崇敬した亀山八幡宮
 福田の八幡神社は「亀山八幡宮」とも呼ぶ。社伝によると、後花園天皇の寛正元年(1461)春、「四郎」というものが、「吾を祭祀して、汝が姓を竹安と名乗るべし」という八幡神の神託により、「鳶が塚」というところに一社を建てたのが起源と云う。その後、利鎌山城主福田遠江守盛雅がこの神を信仰して祠を亀山に遷し、九尺四面の社殿を造営して「神田」を付し、四郎四世の孫又五郎を神主とした。また、八幡神社から東北1キロの「福田地」にある「福性院」も福田氏有縁のお寺だ。現福性院の旧跡を「福田寺」という。その名の通り、地名をそのまま寺号とした由緒ある寺である。今は失われた享保十年(1725)銘の銅鐘に、「中世、福田遠江守盛政、武門の擁護を託し、廃址を披く」とあって、この寺が福田氏の菩提寺であったことがわかる(備陽六郡志)。
 
現福性院から北に五百メートルほどの山際に、福田一族の墓石と称されるものが残っている。中世末期の五輪塔で、山城主に相応しい石塔だ。
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福田地にある中世の石塔群 
 亀山八幡神社を氏神とし、福田寺福性院を氏神とした姿は、在地の権力者「国人」にふさわしい。利鎌山城主福田氏は、西隣、鳥の奥城主有地氏と同じく、備後の国人、国衆と見て間違いない。
 
 中世後半の地域の歴史は、こうした国人たちの興亡によって彩られる。彼らは周囲の国人と勢力争いを繰り広げると共に、領内の開発を進め、神社・仏閣を保護して、地域の支配者に成長した。
 
 戦国時代、美作枡形城主福田三郎右衛門尉盛雅は、間違いなく備後の「国人」であった。では、盛雅はなぜ美作で活躍することになったのか…。有地隆信に滅ぼされたという福田遠江守は盛雅であったのか…。次回はいよいよこの謎に迫ってみたい。

新見能登守元致

新見能登守元致
『毛利家文書』二二五号、「毛利元就他十六名連署起請文」に署判した備後国人衆の一人。
 
『備後古城記』によれば、甲奴郡小堀村の古城主は新見能登守であったと言う。元致のことであろう。新見氏は備中北部の新見庄を本拠とした国人であるが、その一族がどの時代に備後に移住したかは不明である。
 
早く、宝徳元年(1449)新見備中守父子が世羅町小国の潮音寺に小国郷内の土地を寄進している(潮音寺文書)ことから、それ以前であろう。
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その後、明応年間(1492〜1500)、新見氏は山名俊豊方として見える。戦国期の活躍の様子は余り知られていないが、『水野記』によると、新免元高と言う人物が甲奴郡小堀、福田村の寺社へ土地を寄進している。
 
新免氏については他に所見がなく、新見氏の書き誤りであろう。また、元高は東城町帝釈の永明寺「帝釈殿修造奉加帳」に見える新見少輔六郎元高と同一人物と考えられ、能登守元致の子か孫に当たる人物であろう。
 
なお、新見氏は毛利氏の防長移封には従わず、近世初頭には一族離散したようである。
利鎌山城と福田氏(其の四)
 福田三郎左衛門尉「盛雅」で問題になるのは、この人物の活躍が永禄・天正年間に至っても見られることだ。しかも美作の城主として…。
 
 福田盛雅について、「日本城郭大系」13広島・岡山版の津山市医王山城(岡山県津山市吉見)のところに、次の記載がある。
 
「時は移り、永禄九年(1566)に出雲の富田城は毛利氏によって落城し、尼子氏は滅んだ。そして、天正年間(1573〜92)に入って、美作は毛利氏と宇喜多氏が対峙することとなった。この時、医王山城は毛利方に属していて、枡形城主福田盛雅が預り、毛利輝元は在番衆として湯原春綱を送っていた。天正八年(1580)に宇喜多氏は医王山城を攻撃したが、湯原春綱・小川右衛門兵衛尉元政・塩屋元貞は宇喜多方への内通者を出しながらも三の丸を死守し、篭城したといわれる。このため宇喜多勢は撤退した。しかし、天正十年(1582)に毛利氏と羽柴(豊臣)秀吉の和議により、美作は宇喜多領に属すこととなった。ほどなく本城も開城したものと思われる。(下略)」
 
また、巻末の城址一覧の所にも、「枡形城 苫田郡鏡野町香々美藤屋 小早川隆景が築城。永禄年間、福田勝昌が入城。天正七年、毛利・宇喜多氏の攻防戦。」とある。
 
 美作枡形・医王(祝)山両城に於ける福田盛雅の活躍は史実である。
 
先ず兵糧の儀、追々枡形に至り指し上げ候の間、お心安んずべく候、毎事福 三(福田盛雅)相談ぜられ、是非当城の儀(医王山)此方てだて待ちつけられ、(天正8年6月19日付小早川隆景書状)」
 
「何ヶ度申し候ても当城(医王山)堅固御覚悟比類なく候、此の表御出勢の儀、油断無く相催し候、其の段盛雅(福田)江申し入れ候、其の表御手立ての儀、程あるべからず候、御加勢御待ち付け肝要に候(天正8年9月十四日付毛利氏年寄連署書状)」※(「閥閲録」五十一より)
 
 史料は、枡形城主福田三郎右衛門尉盛雅が援軍の小川元政・湯原春綱等と共に、寄せ手の宇喜多勢と悪戦苦闘する様子を伝えている。
 
 問題は、この美作枡形城主福田盛雅と、備後国芦田郡福田利鎌山城主福田氏との関係である。「福田」は、さほど珍しい名字ではない、両者は全く別の家系の可能性もあった。
 
 枡形城の福田氏が備後の出身であったことは、意外な史料の出現で明らかになった。
「東作誌」に収録された次の史料がそれだ。
 
清居山新龍寺棟札
「永禄十二巳巳十二月十九日願主権律師重明
 奉造立仏壇成就時地頭備後国住福田三郎右衛門尉代官寺岡備前守諸旦那繁昌処」
 
 この史料が証明したのは次の一点、永禄十二年(1569)、新龍寺の所在する旧美作国東北条郡北高田庄上横野村、現在の津山市上横野一帯の領主(地頭)は、備後国の国人福田三郎右衛門尉であった、という「事実」だ。(つづく)

備後福田氏の興亡

利鎌山城と福田氏(3)
 福山市内有数の規模と構造を持つ利鎌山城、城主の権勢も相当のものであったはずだ。
 
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登り口に建つ城址の案内板
 城主が在名「福田」を名字としていたことは間違いない。宮原直倁の編んだ「備陽六郡志」外編、芦田郡福田村のところに、「古城二箇所 欠平 利鎌又戸鎌 両所ともに城主 福田遠江守 尼子毛利の節の事なるへけれとも、いつれの幕下といふ事しらず。瀬来伊賀、塩飽十次郎、市善次郎左衛門などというもの、遠江守の家臣なりしとぞ。其の屋敷跡、今に言い伝えて、アサとなれり。岡田氏の者あり、是家臣の末也とそ」とあり、福田村の古城、欠平、利鎌両城の城主は福田遠江守であったと記している。
 
福田遠江守の名前は「盛雅」であったようだ。「備後古城記」芦田郡福田村のところに、「利鎌山(戸かま山とも)福田遠江守藤原盛雅」とある。
 
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上から見た堀切
福田盛雅は実在の人物だ。吉備津神社蔵の西国巡礼納経冊に、「大永八戌子年(1528)九月吉日 福田遠江守藤原盛雅」とある。おそらく「備後古城記」の記事はこの納経冊から取られたのであろう。
 
また、高須杉原氏の家伝文書に、この頃のものと推定される福田三郎右衛門尉盛雅の書状がある。「民部卿」に宛てて、「彼の在所の儀」について異存がないことを述べたものだが、文中に「正法寺」「温井取次を以て」とあるところから、同じく高須杉原文書にある年不詳九月二七日付宮政盛書状(正法寺御同宿中宛)、同じく七月十日付宮實信書状(高須元盛宛)と一連のものだ。
 
この一連の文書群は、永正初年、備後で勃発した木梨杉原氏と備後守護代山内氏との対立抗争事件に関連して、山内氏に味方した備後の実力者宮政盛、同實信が高須杉原氏に「三抱村」代官職を与えたものである。
 
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宮実信の花押(山口県・永末文書)
盛雅がこの件に関して如何なる利害を持っていたのか不明だが、「民部卿」「正法寺」が宛所になっているのは注意を要する。実は「民部卿」「正法寺」は、備後在国の関係者ではなく、京都南郊にある、「王城鎮護」の霊場、石清水八幡宮の「坊官」である。
 
要するに、これら一連の文書が発せられたのは「備後」ではなく、「京都」であったのだ。
 
とすると、福田盛雅、宮政盛は共に京都に居たことになるが、戦国乱世の時代、備後の諸城主が京都に滞在することがありえたのか…。「ありえた」のである。しかもその年代は、木梨氏と山内氏が争った時期とぴったり一致する。備後の国人が大挙して上洛したのは永正五年(1508)のことだ。この年周防の大名大内義興は前将軍足利義稙を将軍職に復位させるために大軍を率いて上洛した。この軍勢の中に宮政盛、同實信がいた。福田盛雅もこの軍勢に属して上洛し、しばらく在京したと見て間違いない。
 
そして、木梨氏と山内氏が、毛利・小早川氏の仲裁で和睦したのは永正九年(1512)のことだ。これら一連の文書が作成されたのはこの頃に違いない。そうすると福田盛雅は、初め「三郎右衛門尉」を称し、のち「遠江守」を名乗ったことになるが、果たして如何に…。(つづく)

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