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北から見た利鎌山
福田氏の居城「利鎌山城跡」をはじめて訪ねた時の感動は今でもはっきり覚えている。それは1978年の3月のことだ。友人と二人で、この城に登った。当時既に山は荒れていて道らしい道はなかった。東北の麓から尾根道を登って行くと、2条の堀切に出くわした。城内に入ったしるしだ。ここから尾根上は階段状に削平されて曲輪となっている。一、二、三……、数えていくと十一段。これでも相当な規模だが、この城の場合、ここはまだ城域の外れにしか当たらない。この曲輪群を越えると、立ちはだかる様な絶壁、しかも左右が深い竪堀となっている。城が廃城となって400年後の今日でさえ登坂は容易でない、城壁が堅固に維持されていた戦国時代、この胸壁は多くの血を吸ったはずだ。驚いたのはここだけではなかった。やっとの思いで攀じ登った我々の眼前には、さらに4条もの堀切が前途をさえぎっているではないか…。
堀切の跡
あとから分ったことだが、実は、この4条の堀切から内側が「城内」と言って良い、城の中枢部分であった。
城の要部は、ほぼ真ん中に築かれた堀切を中心にして東西に二分できる。
西側の一際高くそびえているのが、所謂「本丸」だ。標高206.6㍍を測る最高所には東西60㍍幅30㍍に達する曲輪があり、さらに東に2段の腰曲輪が築かれている。真ん中の堀切から東の部分が後世で言う「二の丸」だろう。城内で最も広い曲輪で、東西70㍍に及び、居住スペースとして十分な広さを持っている。最初の踏査では分らなかったが、後の詳細な調査で、この曲輪の西端、堀切際には10㍍四方の「櫓台」があることが判明した。
主曲輪の跡
これだけでも十分人目を引く山城遺跡だが、さらに驚いたのは、本丸背後の尾根続きに設けられた迷路のような掘切と、曲輪群の周囲に築かれた「畝状竪堀群」だ。
本丸西側に2条に渡って築かれた堀切は、両端が「枝分かれ」して、「迷路」状になっている。初めて訪ねた時、そこは雑木に覆われ、中に入った私は、一瞬、方向を見失ってしまった。
「畝状竪堀群」は、東西の堀切群から連続して4条から10条に渡って築かれていた。いずれも廃城後400年の今日でもはっきり残り、今でも人を寄せ付けない。
さらに、その後の調査で、城の曲輪は本丸から北に伸びた尾根上と、二の丸東北で枝分かれした尾根上にも連続して築かれ、それらを含めると、城の遺構は東西300㍍、南北300㍍に及び、曲輪37箇所、堀切16本、竪堀22本を数えることが判明した。
これは正に福山市内では最大級の山城遺跡である。城の規模と城主の権勢は比例するのが普通である。とすると、城主福田氏の勢力もまた市域有数を誇っていたはずだ。福山地方の戦国史を語る時、利鎌山城と福田氏の存在は避けて通れない。
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備後の武将
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備後国有地氏の飛躍は、東隣福田の領主、利鎌山城の福田氏を討ち、その所領を併呑したことにある。
福田氏の拠った利鎌山
『西備名区』によると、有地氏が福田氏を滅ぼした経緯については二つの説があった。一つは、山手町の八幡宮の霊験譚ともなっている説で、同書は次のように述べている。
「一説に云う。福田遠江守は大内旗下に属す。時に杉原宮内少輔忠興の家士、山手の城主、杉原播磨守(或いは団上監物とも云う)の婿たり。杉原、元大内旗下たりしが、天文の比、雲州の尼子家に属す。有地も尼子に従う。これによって、杉原、有地両士共に尼子に従はんことをすすむ。福田これを容れず、故に不和となり、有地と数度の戦ひ勝負をわかたす。有地ひそかに謀って杉原と示し合わせければ、杉原是を諾してその舅家なるを以て和を計らんと、再三福田を山手に招く。福田其の謀ありとは夢にも知らず、従士僅かにて山手に赴く。有地、兵を俄山に伏せて悉く討ち果たし、直に利鎌山に押し寄せ、其の虚を討って其の城を抜き、福田領悉く押領す。時は天文の末なるよし云へり」
実際、この伝承は山手八幡宮の縁起とも結びついていたようで、同書の山手八幡宮のところにも、「福田利鎌山城主福田遠江守は、有地美作守、杉原播磨守に謀られ滅亡す。其の亡霊、杉原に祟りをなす故神と斎祀る。山手八幡宮は遠江守の霊なり」とある。
この伝えが本当なら、遠江守はさぞ無念だったであろう、信じていた舅に裏切られたのであるから…。
ところが、福田氏の滅亡に関しては異説がある。それが以前にも述べたことがある「弘治元年福田氏滅亡」説だ。
この説も『西備名区』が採録した伝承で、前説と違うのは、有地氏が単独で福田氏を滅ぼしたとする点で、杉原氏は登場しない。
時は弘治元年(1555)三月のことと言う。福田遠江守と不和となった有地隆信は、いよいよ勝負を決しようと兵を挙げ、300余騎で利鎌山城に押し寄せた。この時、隆信は子息民部元盛に兵50を与え、城山の背後に潜ませておいた。隆信が城の大手を攻めると、案の定、遠江守が200の手勢を率いて打って出てきた。しばらく戦った有地勢は、遠江守の子息遠江次郎が城内から援軍に出て来たところで、負けて退くそぶりを見せた。福田勢はこの時とばかり、有地勢に襲いかかった。自然合戦場は城から離れていく…。この時であった、背後の山から忍び寄った元盛勢が手薄となった城内に突入したのは…。城方は城主遠江守夫人の奮戦も空しく、城はあっけなく有地氏の手に落ちた。城主遠江守は討たれ、其の子遠江次郎は逃走して、福田氏は滅亡した(続く)。 |
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私は旧神石郡油木町の町史の編集に携わった。10年計画のおそらく近隣市町村では、東城町のそれに次ぐ規模のものである。
合併騒動で一時は発刊が危ぶまれたが、牧野町長(現神石高原町長)のご尽力で、最後の通紙片近現代は合併後になったが無事全巻出版された。最初中世の資料は皆無だろうと言われていたが、史料編は完成してみると中世資料だけで百ページを越した。理由は、油木町域自体の史料はほんの数通しか残っていないが、戦国時代、町域の一部を支配したと考えられる馬屋原氏関係の史料が多数残っていたためだ。
馬屋原氏は、江戸時代、長州藩士として存続したため、その家伝の文書は長州藩が編纂した膨大な文書集である『萩藩閥閲録』に多数伝えられている。内訳は、巻四一の馬屋原山三郎家に二七通、同巻の馬屋原弥四郎家に一通、巻七七の馬屋原九右衛門家に八通、計三六通を数える。さらに、馬屋原弥四郎家には詳細な家譜が収録されている。
町史の執筆で、頭を悩ませたのは、巻四一の馬屋原山三郎家の文書、及び同弥四郎家の家譜に出てくる「敷名兵部太夫元範」である。
山三郎家の文書では、この人物は馬屋原信春の嫡男宮寿の後見人として馬屋原家に入り宮寿の早世後家督を継承した敷名少輔五郎の父として現れる。一方の弥四郎家の家譜では、この人物は弘治元年(一五五五)馬屋原義政の後継者として馬屋原家自身を相続し、名前も馬屋原左衛門太夫元範と改めたことになっている。
ところが、不思議なことに「馬屋原元範」となったはずの永禄年間から天正年間、この人物は元の名乗りである「敷名兵部太夫元範」として各種の史料に散見する(閥閲録など)。
史料の性質から判定すると馬屋原弥四郎家の家譜の記載は誤りと断定できる。敷名元範は天正九年(一五八一)の『村山家旦那帳』にも備後江田の領主として「毛利兵部太夫殿」として現れ、馬屋原家を相続したとは到底考えられない。
それにしても、なぜこのような家譜が作成されたのであろうか。馬屋原弥四郎家が、ことさら主君毛利氏との結びつきを強調しようとしたこと以外に考えられない。
『村山家旦那帳』に「毛利兵部太夫殿」とあるように、この人物はれっきとした毛利氏の一族であった。しかも、元就とは叔父甥の関係にあった。毛利氏の系図によると、元範は元就の実弟で元就と家督を争った元綱の子息に当たり、天文二二年(一五五三)、毛利氏に滅ぼされた江田氏の跡を継承して備後旗返城主(三次市三若町)となったとされている(村山旦那帳の記載から事実であろう)。
敷名元範の居城、旗返山城跡(三次市三若町)
江戸時代、主君の家系に連なることは大変名誉なこととされ、また、実際にも優遇されたことは間違いない。しかし、馬屋原弥四郎家のように事実をことさら捻じ曲げるようなことはまれであった。
馬屋原氏の場合、このような家譜の創作が行なわれたのには理由があった。それは、山三郎、弥四郎両家の対抗関係である。
平姓馬屋原氏の本拠、九鬼城跡
江戸時代の地誌や系図によれば、神石郡の馬屋原氏には小畑(三和町)の九鬼城を本拠とした家と、同固屋城を本拠とした家の両家があって、九鬼の馬屋原氏は平姓を称し、固屋の馬屋原氏は源姓を称えていたという。そして、九鬼の馬屋原氏の子孫が長州藩の馬屋原山三郎家であり、固屋城馬屋原氏の後裔が同弥四郎家であった。
もちろん平氏といい、源氏といい、確かめるすべはない。おそらく、九鬼城馬屋原氏が元範の子息を養子に迎えたこと(これは事実である)に対抗して、敷名元範はそもそも同家の養子として我家を相続したと主張したのであろう。
系図の創作者は「馬屋原元範」の孫とされる前原元詮あたりが一番怪しい。元詮はのち「休閑」と号し、毛利輝元の「御黒印」を預かっていたと伝えられる、輝元側近中の側近であった。彼がそうだと言えば誰も異を唱えない。
源姓馬屋原氏の居城、固屋城跡
そして、この造られた系図は後世の学者を誤らせた。現在、毛利氏関係の書籍の多くは、元範は後に馬屋原氏を継いだと記され、本来九鬼の馬屋原氏が同氏の惣領家であった筈にもかかわらず、馬屋原氏の惣領家は源姓の固屋城馬屋原氏、すなわち、長州藩士馬屋原弥四郎家が同氏の本流として各種の書籍に載せられるようになったのである(広島県史など)
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悲運の女性
〜毛利興元の娘の数奇な一生〜
彼女が生まれたのは戦国の嵐が正に吹き荒れようとしていた一六世紀の初頭のことである。
父は安芸の国吉田郡山の城主毛利興元、有名な戦国の武将毛利元就の兄だ。彼女には生まれた時から悲運の影がつきまとっていました。
生まれて間もない永正一三年【1516】八月、父興元は、二四歳の若さで死去し、杖とも柱とも頼む兄幸松丸も、大永三年【1523】七月、わずか九歳で病死してしまうのです。
これから彼女の波乱の人生が始まります。成長した彼女は、毛利家を相続した叔父元就の命ずるまま婚家を転々とすることになるのです。
山内豊通の居城「甲山城跡」
初めに嫁がされたのは、備北に大きな勢力を持つ庄原甲山城主山内豊通の元でしたが、新郎の豊通は間もなく死去し、子がなかった彼女は実家に帰されてしまいます。そして、次に嫁がされた竹原の城主小早川興景も、天文一〇年【1541】三月、安芸銀山城攻めの陣中で病死し、ここでも子供に恵まれなかった彼女は婚家を後にしなければならなかったのです。
しかし、実家に帰っても、温かく迎えてくれる父や兄はいません。叔父元就の政略の道具として各地の豪族の元を転々する他、彼女の生きる術は無かったのです。そして、最後に嫁がされたのが備後神辺の城主として有名な、杉原盛重の元でした。
杉原盛重の居城神辺城址
こう書くと、彼女は謀将元就の「手ゴマ」の一つとして、ただ運命を甘受するだけの悲運の女性のように見えますが、彼女の足跡を子細にたどると、別な一面も浮かんできます。彼女が乗り込んで行った豪族は、その後一様に毛利家の有力な味方になっているのです。 最初の嫁ぎ先山内氏はお陰で毛利のライバル尼子氏に攻められていますし、杉原盛重は無二の忠誠を毛利氏に捧げました。また、小早川興景の跡は、元就の三男隆景が継ぎますが、それも彼女が居たからこそでしょう。
いわば彼女は毛利家の「女性外交官」としての役割も担っていたのです。 |
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新見能登守元致
『毛利家文書』二二五号、「毛利元就他十六名連署起請文」に署判した備後国人衆の一人。
『備後古城記』によれば、甲奴郡小堀村の古城主は新見能登守であったと言う。元致のことであろう。
新見氏は備中北部の新見庄を本拠とした国人であるが、その一族がどの時代に備後に移住したかは不明である。
早く、宝徳元年(1449)新見備中守父子が世羅町小国の潮音寺に小国郷内の土地を寄進している(潮音寺文書)ことから、それ以前であろう。
世羅町小国の潮音寺
その後、明応年間(1492〜1500)、新見氏は山名俊豊方として見える。
戦国期の活躍の様子は余り知られていないが、『水野記』によると、新免元高と言う人物が甲奴郡小堀、福田村の寺社へ土地を寄進している。
新免氏については他に所見がなく、新見氏の書き誤りであろう。
また、元高は東城町帝釈の永明寺「帝釈殿修造奉加帳」に見える新見少輔六郎元高と同一人物と考えられ、能登守元致の子か孫に当たる人物であろう。
なお、新見氏は毛利氏の防長移封には従わず、近世初頭には一族離散したようである。 |





