備後山城風土記

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石塔見て歩き

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山野町高尾(こおおん)の石塔群
 山野町には大原石塔群以外にも多くの中世にさかのぼる石造物が残っている。中でも山の盆地の手前、字高尾には巨大な五輪石塔を中心として、宝篋印塔など多数の石造物が存在する高尾石塔群が圧巻である。福山駅前から井笠バス「山野行き」に乗車し約四〇分、バスは「新七曲トンネル」を通って山野町に入る。そこから七つ目のバス停が「大谷高尾」で、バスを降りて、向かいの山麓を見ると、民家越しに石塔が林立する姿を見ることができる。
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ほぼ完全な寶篋印塔
 ここは「東坊」と呼ばれる中世の寺院跡と考えられており、これらの石塔は耕作や山崩れなどで出土したものを後世になって一箇所に集めたものとも言われている。早速登ってみると、中央の人の背丈ほどもある五輪の石塔の左右に小ぶりな五輪石が並び、左手に四基の五輪石を措いて基壇から九輪まで完備した宝篋印塔が建っている。笠部の反り加減から室町前期のものと推定される。五輪石には「コゴメ石」製のものもあり、南北朝時代から戦国時代のかけて営まれた墓地と考えられる。
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総高2メートルに達する五輪石塔
 内一基の五輪石に「宮弾正」の銘が入ったものがあると言われているから、中世付近一帯を領有していた宮氏一族のものと見て間違いない。
 
 山野と宮氏の関係は南北朝期には確認される。文和四年(一三五五)一一月、宮師盛は「山野郷内大原名田畠」を氏寺の中興寺(新市町宮内)に寄進している。大原とは先に紹介した大原石塔群のある一帯である。
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今も香華が絶えない
 また、応永一五年(一四〇八)山野郷内「比多野」は宮氏兼の所領であった(山内首藤家文書八一号)。当石塔群の存在する「高尾」もまた宮氏と深い結びつきを持っている。宮氏の一族にはこの地を「苗字の地」とした「宮高尾氏」の存在が知られ、戦国末期まで神石郡門田庄(神石高原町福永)の国人として勢力を維持した。さらに、「高尾」の読み「こうおん」から、『陰徳太平記』に登場する「宮入道光音(こうおん)」との関連も指摘でき、同地が宮氏の本領の一部であったことが、文献の上からも推測できる。
大原石塔群(福山市山野町)
福山の「奥座敷」山野町は石造物の宝庫である。いたるところに中世の五輪塔や寶筐印塔が残り、歴史を感じさせてくれる。中でも立派なのは盆地西側の台地上に残る「大原石塔群」だ。
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山野町の大原石塔群
新七曲トンネルを過ぎ、しばらくすると山野の町に入る。新しい道が出来て間違えやすいが、山野中学校を目指し、校舎の北側を西に台地に登ると「大原」の集落が広がり、左折して防火用水の看板から右手の山道に入ると50メートルほどで目的の石塔群を目にすることが出来る。
 
九輪までの高さ2メートルに達する巨大な寶筐印塔が林立する姿は圧巻だ。規模と言い、姿と言い、お隣安芸の国小早川家の石塔(三原市米山寺)に匹敵する見事さだ。
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向かって右が「白壁」銘の寶篋印塔
石塔群の主は、正面向かって左から5基目の石塔に「白壁」の銘があることから判明する。「白壁」は「備後殿」と呼ばれた備後切っての豪族「宮氏」の五代宮元盛の戒名だ。
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左端が初代宮盛重の寶篋印塔
よって、左の一番巨大な石塔が宮氏の初代宮盛重公の墓石で、続いて二代式部大輔師盛、三代越前守満盛、四代下野守満重の墓石と並んでいることが判明する。その裏にやや小ぶりな寶筐印塔が主人に付き添うように並んでいる。奥方の墓石であろう。ともかく福山地方で最大の石塔群として一見の価値あるものである。
 笠岡諸島の南端に近い真鍋島は魅惑の島だ。笠岡港から高速艇で40分、五月の勇壮な「走り神輿」、夏の海水浴、四季折々の豊かな自然は人々を惹きつけてやまない。
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 歴史は古い。島の名は「真南辺」を意味し、奈良時代頃から現在の「真鍋」と書くようになったと言う。島に伝わる古文書によると、平安時代、大納言藤原信成の子がこの島に流され、末裔が島の領主となって真鍋氏を称したという。
 
 開発の古い島だけに、島の各所に立派な石造物が残っている。中でも通称「まるどうさま」と呼ばれる凝灰岩製の「宝塔」は注目される。
 
 真鍋港に上陸し、町並を抜けて、右手の道に入り、山越えに歩くこと30分で、島の西端に近い「沢津丸」に着く。目的の宝塔は、断崖上の林の中に建っている。以前は吹きさらしだったが、今は蓋い屋の中に鎮座している。総高一、一七㍍、全体の形状から平安末期のものと見た。源平の合戦で戦死した真鍋一族の供養塔と伝えるが、そうではあるまい。
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 伝えでは岬の突端にあったと言うから、航海の安全を祈って造立された経塚の可能性が高い。
福山市重要文化財 宝筐印塔(赤坂八幡神社福山市赤坂町
人間の生きた痕跡で、もっとも永続性のあるのは、墓石や供養塔、記念碑などの石造物だ。「石」は正直である。良い石で造られた物は、数百年の歳月を経て、今も我々の眼前に美しい姿を留めている。
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福山・笠岡周辺で先ず訪ねて欲しいのは、福山市の西部、赤坂町の赤坂八幡神社境内裏山に建つ「寶筐印塔」だ。
 
福山駅前から西に車で20分、国道2号線の国土交通省の国道管理事務所辺りで、北の旧国道に入ると、右手の山際に鳥居が見える。境内の右手に登り口があり、20メートルでその美しい姿を目にすることが出来る。
 
高さ2.35メートルで、基壇から九輪までほぼ完全に残っている。寶筐印塔は、元々寶筐印陀羅尼経という経典を納めるための石造物で、鎌倉時代後期から供養塔や墓石として造立されるようになった。
 
赤坂の寶筐印塔は、笠部の立ち具合から南北朝時代のものと推定されている。福山市の重要文化財に指定されているが、銘があれば国の重文級の優品だ。
 
立地から墓石や個人の供養の為に造立されたものではない。寶筐印陀羅尼経を石塔に納め、56億7千万年後の弥勒菩薩出現まで伝えれば大きな功徳があるとされ、中世には勧進聖が、村人の寄捨で各地にこの石塔を建てて歩いた。この石塔もその一つであろう。
伝足利義昭石塔
優美な石塔には、何らかの言い伝えがある。福山市赤坂町にあるイコーカ山に建つ宝筐印塔もその一つだ。
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          昭和40年代のイコーカ山
JR山陽本線備後赤坂駅のそばに小さな丘がある。国道2号線が鉄道と交差する済美陸橋の西側で、周りが削られて地肌が露出している。
 
登ってみると、てっぺんは芝生の生えた径20㍍ほどの土饅頭で、傍らに建つ説明板によると今から1600年前の「古墳」らしい。
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              東から見たイコーカ山古墳
山の名前が面白い。ここは松永と福山の丁度分水嶺にあたり、昔、松永方面の男性は、ここまで来て、福山の色町に遊びに行こうか、行くまいか迷ったらしい。「イコーカ山」の由来だ。
 
それはともかくとして、この丘のてっぺんからやや南に、立派な宝筐印塔が建っている。「相輪」こそ失われているが、現高1、5㍍を測る立派なものだ。室町幕府最後の将軍足利義昭の墓石、或いは供養塔と伝えている。
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          イコーカ山に建つ寶篋印塔
幕府の将軍という歴史上著名な人物の墓が「なぜここに…」と、違和感を覚える方もあるだろう。だが、記録をひも解くと、義昭が一時期、ここから程近い津之郷町の「御殿山」に居たことが判明する。
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          足利義昭の居館跡、津之郷町の御殿山
歴史的な事実としては、義昭は慶長二年(1597)、京都で亡くなっており、この地に葬られることはなかった筈だが…。或いは、義昭有縁の人物が近所に居て、故人を偲んで建てたものであろうか…。苔むした石塔の前で、暫し過去に遊ぶのも楽しいものだ。

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