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一生の間に4度も婚家を変えた姫様がいる。名前は分かっていない。
毛利氏の本拠、吉田郡山城址本丸 生まれて間もない永正13年【1516】八月、父興元は、24歳の若さで死去し、杖とも柱とも頼む弟幸松丸も、大永3年【1523】七月、わずか9歳で病死してしまう。
これから彼女の波乱の人生が始まる。成長した彼女は、毛利家を相続した叔父元就の命ずるまま婚家を転々とすることになった。
山内豊通の居城、庄原甲山城址
初めに嫁がされたのは、備後北部に大きな勢力を持つ庄原甲山城主山内豊通の元であったが、新郎の豊通は間もなく死去し、子がなかった彼女は実家に帰されてしまう。
そして、次に嫁がされた竹原の城主小早川興景も、天文10年【1541】三月、安芸銀山城攻めの陣中で病死し、ここでも子供に恵まれなかった為は婚家を後にしなければならなかった。
しかし、実家に帰っても、温かく迎えてくれる父や兄弟はいない。叔父元就の政略の道具として各地の豪族の元を転々する他、彼女の生きる術は無かった。
杉原盛重の居城、神辺黄葉山城址
そして、最後に嫁がされたのが備後神辺の城主として有名な、杉原盛重の元であった。
こう書くと、彼女は謀将元就の「手ゴマ」の一つとして、ただ運命を甘受するだけの悲運の女性のように見える。だが、彼女の足跡を子細にたどると、別な一面も浮かんで来る。彼女が乗り込んで行った城主は、その後一様に毛利家の有力な味方になっているのだ。
最初の嫁ぎ先山内氏はお陰で毛利のライバル尼子氏に攻められているし、杉原盛重は無二の忠誠を毛利氏に捧げました。また、小早川興景の跡目は、元就の三男隆景が継ぐが、その影には彼女の暗躍があったという。
戦国の世、「姫」たちは「女性外交官」としての役割も担っていた。 |
備後の歴史を彩った女性たち
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物語は、現在の庄原市西城町中野にあった胎蔵寺の境内で始まりました。戦国のころ、ここ西城の里、石津山胎蔵寺は、桜の名所として知られていました。
その花を訪ねてやってきたのが、そもそも二人の悲恋の始まりでした。二人の名は、照目の前と東左近。照目の前は、付近一帯を領する西城大富山の城主、宮景盛の娘。東左近は、中野から西城川を隔てて束に位置する八鳥の地侍と伝わっています。
東氏の居城「蟻腰城址」庄原市西城町
花の下で出会った二人はたちまち深い恋に落ちました。
〃我恋は岩津の山の桜花 いわず散さん事そ悲しき
東左近〝
〃思えども我も岩津の花なれば 誘風あるに散ざるらめや
照目の前〟
しかし、二人の恋は悲恋に終わりました。照目の前の父景盛は娘の意向など確かめもせず、照目の前を西城から西に山を越えた比和(庄原市比和町)の三河内氏のもとへ嫁がせてしまうのです。そして、一旦里帰りした彼女は、再び比和には帰らず、西城町大屋の今櫛池という池に身を沈め、帰らぬ人となりました。
これが今も西城町一帯に語伝えられる、今櫛池の竜神伝説(入水したた姫はその後、竜神になったと伝えられる)の一節ですが、照日の前は実在の人物で、死後、父景盛が娘の菩提を弔うために建てた観音堂(天正十年の創建と伝える)も現存していますし、彼女の法名も伝わっています。
照日の前の父宮景盛画像(庄原市浄久寺蔵)
悲恋の背景は、やはり当時の政略結婚にあるようです。城主の娘に生まれたからには家のため、父のため、政略の手駒として嫁いで行かなければなりません。自分の恋心など押しっぶす必要があったのです。それができなければどうなるのか、彼女の末路が示しています。
照目の前の父宮景盛は、隣国庄原の甲山城主山内氏と不断の交戟状態にありました。政略のため、娘を甲山城の北に位置する三河内氏のもとに嫁がせる必要があったのです。戦国の嵐は、若い男女の愛など吹き飛ばしてしまうほど、激しく荒れ狂っていました。
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「その風俗は淫らではない。…婦人は髪をゆってうしろで結んでいる。衣服は一枚の布で、真ん中に穴を開け、頭から被っている。…」
これは、今から一七〇〇年ほど前の中国の史書「三国志」魏書東夷伝倭人の条(通称魏志倭人伝)の一節です。
現在のようにシャンプーもなく、石鹸もなかったはずですが、私はこの記述を読むと、なぜかあの簡素な弥生式土器のような、清楚な女性を想像してしまいます。
大和撫子は、二千年前から変わらないのでしょうか。
しかし、気になる記述もあります。
「その俗は、身分のあるものは五、六人、庶民でも二、三人の妻をもっている。婦人は淫らでなく、嫉妬もしない…」
これはどうしたことでしょうか。当時の男性はアラビアの王様のようにハーレムを持っていたのでしょうか。
実は、私たちの遠い先祖は、当時まだ今日のような婚姻制度を持っていなかったのです。
古代のわが国の婚姻制度は、〝妻間婚″と言って、男性が女性の家に通いました。それも制度的なものではなく、女性が拒めば男性は別の女性を見つけなければなりません。生まれた子供は女性が育てましたから、当時の中国人から見れば、一人の男性がたくさんの妻を持っているように見えたのです。
このように『倭人伝』は、弥生時代の風俗を知る貴重な史料となっています。そして、政治的にも女性が王様であったという驚くべき情報を現代にもたらしてくれました。
それが有名な邪馬台国の女王、卑禰呼です。
卑禰呼は 〝よく鬼道を使い、衆を惑わした〃とあります。鬼道とは、神の言葉を伝えたり、占ったりする呪術のことです。つまり、彼女は巨大な権力を持った巫女だったのです。
古代人が好んだ勾玉
とすると、小国の上に立つ倭国王が女性だったわけですから、各地に存在した国々にも卑禰呼のような女性がいた可能性があります。果たしてわが備後にも女王がいたのでしょうか。
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