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備後の応仁の乱(四)是豊の没落
相村の合戦
入国した山名是豊が最初に攻撃目標としたのは備後最大の勢力を誇った宮下野守(教元)であった。
是豊の攻勢に直面した宮一族は、惣領の下野守を中心として山間の小盆地「柏村」に立て籠もり、この攻撃を凌ごうとした。
「柏村」は、現在の新市町下安井字柏にあたり、蛇円山から南に伸びた丘陵中の窪地で、周りを百㍍前後の尾根で囲まれ、東西南北に小径が通じ、大軍を迎え撃つには恰好の場所であった。
宮一族の立て篭もった「かしわ村」
是豊と宮氏の戦いは、足掛け3年間にわたった。「渡辺先祖覚書」によると、是豊被官の渡辺信濃守家は「一宮りんそう合戦」や「つつみの城没落」の合戦で戦功を挙げている。「りんそう」(新市町宮内)や「つつみの城」(神辺町上竹田)は今日でも地名が残っており、戦いは、柏村を中心とした神辺平野全域を舞台として繰り広げられた。是豊方には備前の松田氏、備中の庄元資の軍勢も加わっており、庄元資の弟資長は文明3年(1471)11月、備後粕村で討死している(洞松寺文書)。
是豊の初戦は、宮氏の敗北で終わった。柏村に追い詰められた宮氏は、「下野殿を始めとして悉腹を御切」、備後国は悉く山名是豊の「御下知」に従ったという(渡辺先祖覚書)。
だが戦いはこれからであった。備北甲山城(庄原市本郷)には、備後西軍の主力、山内豊成が、和智・柚谷・田総氏などの国人衆と共に、是豊の軍勢を阻止すべく、満を持して待ち構えていた。
是豊の没落
2年に及んだ甲山城の戦いは、先の柏村合戦以上に、守護対国人という図式を鮮明にした。宮氏を屈服させたとはいえ是豊には国内の有力国人衆は殆ど味方せず、頼むところは渡辺・栗原という土豪層と隣国の東軍方諸将のみという状態が続いた。
甲山城を攻撃する是豊の足元は意外な方向から崩れ始めた。是豊の有力な味方は国内に無く、隣国諸将の援助を仰いで来た。なかでも、安芸の沼田小早川氏は是豊にとって杖とも柱とも頼む存在であった。にもかかわらず、是豊は同氏の危機を救うことが出来なかった。
沼田小早川氏の本拠高山城は、文明5年(1473)以来西軍方の包囲攻撃を受けていたが、是豊の必死の救援も空しく、文明7年(1475)4月、和睦、開城した。これは是豊にとって大きな痛手であった。西の防波堤を失った是豊は、その本拠備南を敵の攻撃に晒すことになった。
是豊没落のきっかけとなった旗返山
是豊軍の崩壊は急激なものであった。安芸の毛利豊元の軍勢が、同じく西軍方の江田氏の旗返城(三次市三若町)を攻撃中の是豊の子息山名七郎・小早川氏の軍勢を切り崩し、江田繁ケ峰(三次市向江田町)に陣を移すと、是豊軍の敗走が始まった。是豊はこの背後からの脅威を取り除くことができず、西軍方の総反撃を受けて石見の国に逃走した(毛利家文書・渡辺先祖覚書)。(新びんご物語「あしだ川」掲載より) |
備後の応仁の乱
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備後の応仁の乱(3)
「宮氏の向背」
守護所尾道近くまで攻め込まれたのであるから、東軍方の守護山名是豊にとって、この西軍方の攻勢は見過ごすことはできなかった。「碧山日録」によると、応仁2年(1468)12月、是豊は備後に帰り、西軍方に立ち向かった。
宮氏の本拠「かしわ村」
是豊の帰国には、別に大きな目的があった。西軍方に走った宮下野守の討伐である。従来、「応仁の乱」で、宮下野守は東軍に属したといわれてきた。『福山市史』上巻は、『応仁別記』を引いて、「宮氏では惣領宮下野守自身が是豊に従って上洛している」、「このころ(筆者注文明2年10月)山名是豊は宮下野守など備後の東軍を率いて近畿地方を転戟しており」と述べている。しかし、同書が根拠としている『応仁別記』には脱漏があり、証拠になり得ない。宮下野守の名が現れるのは、同書文明元年7月13日の、西軍大内政弘が摂津池田筑後守を責めた記事の後で、「山名弾正是豊、備後国宮下野寺ヲ責手二道、悉打順ケレハ、打テ上ラレ、兵庫へ切上ラレケリ(下略)」とある。
『福山市史』は、この記事を論拠に宮氏が東軍に味方したとしているが、では是豊は何処に宮下野守を遣わしたのか、さらに是豊は何処から何処へ「打テ上ラレ」たのか、などなど理解に苦しむ文章だ。
それよりも、宮氏の向背については『重編応仁記』六、摂津合戦事の記述を採った方が良い。「其頃東軍山名弾正是豊、備後国ノ住人宮下野守退治ノ為、彼国ニ馳下り、宮ヲ打従へ帰洛スル所ナレバ其儘摂州ノ兵庫二陣ス」
宮下野守が西軍に応じたことは、別の史料からも確認出来る。『応仁記」巻二、室町亭行幸之事によれば、応仁元年8月、室町御所に詰める奉公衆の内12名の者が西軍方に内通し、東軍細川勝元の要請により幕府から放逐されたが、この中に宮下野守、同若狭守も居た。これらのことから、『応仁別記』には記事の脱漏があることは明らかで、宮下野守は西軍に味方したとするのが正しい。
備後備中の境にそびえる坪生仁井山城址
「是豊の入国」
この是豊の反撃は、一応功を奏した。西軍の南下は阻止され、文明元年4月には、東軍が逆に北上し重永神上(世羅郡世羅町)で西軍と戦った。だが、是豊が上洛すると、たちまち西軍の反撃が始まった。西軍の総帥山名宗全は、備後に腹心の宮田教言を送り、是豊勢力の撲滅を謀った。宮田教言は、山内氏の拠点甲山城(庄原市本郷)を本拠に活動し、文明2年夏頃にはほぼ備後一国を制圧した。宗全は書状の中で「今に於いては外郡の儀も悉く落居したようで誠に目出度い」と述べている(「山内首藤家文書」124)。
これに対して是豊は、東軍方の有力武将として畿内を転戦していたが、領国備後の西軍方の動きを黙視することは出来ず、同年暮帰国を決意した。しかし、実際に是豊自身が備後坪生(福山市坪生町)に着陣したのは更に遅れて文明三年(1471)4月16日の事であった(三浦家文書)。(新びんご物語「あしだ川」掲載) |
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備後の戦い
東西両軍に別れた備後の国人衆は、始め両軍の招きに応じて、近畿地方で戦った。
『応仁記』によると、江田・和智・山内・宮の諸氏は、大乱開始直後の応仁元年(1667)6月8日、西軍の総大将で備後の前守護山名宗全の扱きに応じて但馬国(硯兵庫県北部)に出陣し、東軍細川勝元の領国丹波(京都府北西部)に攻め入っている。
また、山内氏や渡辺氏、宮氏の一族法成寺尾張守等が京都の市街戦で活躍したことが記録に残っている(『山内首藤家文書』・『渡辺先祖覚書』等)。しかし、国人衆が両軍首領のため中央で血を流したのは僅かの期間であった。戦いが長期戦になると、彼らはいち早く帰国し、その最大の関心事、所領の確保・拡大を目指して狂奔することになった。
備後に於ける東西両軍の戦いは、大乱勃発の翌年、応仁2年(1468)8月、世羅郡で始まった。すなわち、『山内首藤家文書』によると、同月3日、庄原甲山城の山内豊成の軍勢を中心とした西軍方は、同郡小世良(世羅郡世羅町)に侵入し、東軍方の軍勢と戦っている。
苧原要害、中山城址
戦いは、最初西軍方優勢の内に推移したようだ。翌文明元年(1469)2月、山内豊成を中心とした西軍方の軍勢は大きく南下し、東軍杉原氏の領内「杉原苧原」(尾道市小原町)に侵入した(「小早川家証文」160号等)。
東西両軍の合戦が先ず世羅郡で始まったのには理由がある。それは世羅郡の大部を占める高野山領「太田荘」がこの時期、実質的に現任の守護で父宗全に背いて東軍方に味方した山名是豊の支配下にあったためだ。同荘は、応永9年(1402)、山名氏の「守護請」となっており、守護山名氏にとって備後に於ける拠点として大きな意味をもち、是豊もこの地を経済的な基盤としていた。太田庄を誰が握るかが大乱の帰趨を決める鍵となった。また、山内氏を中心とした西軍方の軍勢がさらに南下の姿勢を示したのは、その先に是豊の本拠、守護所尾道があったからである。
守護所尾道
従来、備後守護としての山名氏は、守護所を神辺城(福山市神辺町)に置いていたと考えられていた(「福山市史」上巻等)。しかし、神辺城の初見は、確実な史料の上からは戦国時代の天文年間のことであり、この説は見直されつつある。尾道西国寺の『再興寄付帳』によると、室町中期、同寺は守護山名持豊を初めとした山名一族の力によって再興されており、さらに、「尾道浦」は高野山領太田荘の倉敷地として、前述のように山名氏の支配下にあった。備後に於ける山名氏の本拠は尾道であったとするのが安当であろう。
十刹の一つ、尾道天寧寺
すなわち、山内豊成を中心とした西軍方の国人衆は、是豊の守護所が置かれていた尾道を目指して南下を繰り返したのだ。
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大乱の勃発
応仁元年(1467)1月、京都は続々と上洛する諸国の軍勢で不気味な緊張に覆われていた。幕府を二分する実力者、細川勝元・山名宗全は、いよいよ実力行使の決意を固め、味方の諸大名に動員令を発したのだ。戦端は、両陣営の支援を受けた畠山政長と同義就の間で開かれた。同年1月18日の御霊森合戦である。しかし、この時点では細川方は動かず、戦いは山名方の支援を受けた畠山義就の勝利となった。本格的な衝突は、同年5月24四日、細川方の一色義直邸攻撃によって始まった。西軍山名宗全の激に応じた大名は政豊・政清・教之を初めとする山名一族、新管領斯波義廉、河内守護畠山義就、能登守護畠山義統、丹後守護一色義直以下、赤松・土岐・富樫氏等大名30余人、都合11万人。対する東軍細川勝元方には、成之・成春・政有を初めとする細川一族、斯波義敏、近江・出雲・飛騨守護京極持清、若狭守護武田国信、そして、山名一族の中でただ一人勝元の召しに応じた山名是豊等、総勢16万余人(応仁記)。以後両者は、京都、否全国を舞台として、文明9年まで11年にわたって死力を尽くして戦った。
備後国人衆の分裂
守護の山名氏が分裂したため、備後の国人衆は大乱の当初より、前守護宗全に味方する者と、現守護是豊に従う者の二つに別れて、互いに争った。東軍山名是豊に味方した者は、守護所尾道周辺の国人衆、木梨庄や高須の杉原氏一族や沼隈郡草戸の渡辺氏等ごく一部で宮氏を始め、備北の山内首藤氏、三吉氏、和智・江田の広沢一族等、殆どの国人衆は西軍山名宗全の下知に従った。
両者対立の構図は、一般に、「内郡衆」と「外郡衆」という、備後山間部(内郡)の国人衆と、沿岸部(外郡)の国人衆の対立抗争という図式で描かれることが多い(「福山市史」上巻等)。しかし、有力国人衆の殆どが西軍山名宗全に味方した事は別の説明が必要だ。結論を先に述べると、備後に於ける「応仁の乱」は、守護に対する国人の反抗という構図で戦われた。有力国人衆の内、杉原氏一族のみが東軍方として行動している、これは同氏の本拠が守護所尾道に近接しており、是豊との結び付きが特に強かった為だ。また、草戸の渡辺氏は、この時期まだ土豪(有力名主)の範噂を出ておらず、守護の土豪に対する被官化の一例として捉えることができる。
室町期の守護と国人の関係は、緊張関係をはんでいた。守護は職権によって国人衆の被官化を押し進めていったが、順調ではなかった。守護の領国支配の為には国人の被官化が必要であったが、国人の側では必ずしも必要はなかった。特に有力国人は、その領域支配に守護の力を必要とせず、却って守護の支配と対立することが多かった。そのため彼らの中には「奉公衆」として直接将軍と結びつき、守護から独立の姿勢を示す者もいた。西軍に味方した宮氏や三吉氏がその代表だ。守護山名氏の分裂は、有力国人衆に、守護に対する反抗の絶好の口実を与えた。前守護山名宗全の命を奉じることによって、堂々と現任の守護である山名是豊と戦う事ができたのだ。
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