備後山城風土記

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薬師如来鑑定顛末記

時々一般の方から、物の「鑑定」の依頼がある。
よくあるのは「家系図」を見て欲しい、と言う依頼だが、これは原則「断って」いる。
変わったところでは「和鏡」があった。江戸時代の一般的な柄鏡だが、「天下一」とあったのが気になったらしい(これは常套句)。
 
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変わったところでは、「薬師さん」を見てもらいたいと言うのがあった。
福山市の東北部のとある集落のお堂に安置されているもので、地元の方が「春日仏師の作」と伝わっているが、どうだろうか。というものだった。
都合をつけて現地に行ってみると、辻堂に薬師如来の坐像が安置されている。
 
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どう見ても近世の作だ。
だが、率直にそう伝えるのも悪いと思い、「貴重な物だから専門家に鑑定してもらったら」と、博物館のHさん(現徳島文理大教授)を紹介しておいた。
後で博物館の人に聞くと、やっぱり江戸時代の作だったとか…。
最近行って見ると、少しこざっぱりとしていた。新しいとわかっても信仰の対象として大切にされているらしい(ほっと一安心)。
 
福山市の中心から東北5キロのところに神辺町のSと言うところがある。
中世、高富庄と言う荘園のあったところで、今でものんびりとした田園風景が広がっている。
 
三吉鼓氏の城跡と伝わる山
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この地の東側に、「Т谷」と呼ばれる場所がある。南北朝時代、備後の武将として活躍した三吉(鼓)少納言房覚弁の本拠で、谷の奥まったところに一族の墓地がある。
 
墓地、石造物の調査で訪れた時のもの
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この谷の南側の尾根が城跡と伝わるが、それらしい跡はない。
が、北面した岡の中腹に、薬師堂がある。
 
鼓薬師堂
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三吉鼓氏の持仏堂の名残と言われるが、中に立派な薬師如来の坐像がある。
この坐像のことをはじめて耳にしたのは、30年以上前のことで、神辺町教委のS氏から「あそこにのう、鎌倉仏があるんどう。ありゃあ重文の価値があらあ…」
と聞いたのが、それだ。
 
フラッシュ無しで撮影したもの
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仏像に余り興味が無かった私は、「ふうん」と思っただけで、ほって置いた。
ところが、最近になって、三吉鼓氏のことを紹介する必要があって、初めてこのお堂を訪れた。
 
フラッシュ撮影のもの
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扉を開けると、その薬師様は圧倒的な量感で迫ってきた。
素人の私でも、「確かにこれは…」と実感できた。
残念なのは、保存状態が悪いことだ。
「重文の価値がある」、これが私の感想だが、さて皆さんの感想は?

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昨日に続き、路傍の仏様を紹介しましょう。
「路傍の仏」と言って、先ず頭に浮かぶのは神石郡神石高原町父木野の薬師如来坐像です。
この仏像は、相当以前から、県道脇の辻堂に安置され、昭和49年(1974)以来、何度も前を通り、写真に撮って来ました。
 
1974年8月に撮影したものです。
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1983年頃撮影したものです
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2006年に撮影したものです
十二神将の位置が微妙にずれていることが分ります
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ざっくり割れたお顔が無残ですね
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この写真は故村上正名先生が「備後今昔」上巻(昭和45年刊)
で紹介された写真です。恐らく昭和30年代のものと推定されます。
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村上先生は、御本で、室町期の優品と紹介され、「文化財保護に熱心な教育長のきもいりで、付近のこれまた篤信の方々により今後保存措置が講ぜられたのは、ほんとにうれしい限りです」と述べられていますが、何度通っても「保存措置が講ぜられた」ようには見えません。ほんとに残念な限りです。
尾道古寺めぐり (その1)
 
巨大なわらじで有名な西国寺は「西国一の寺」
 行基の創建と伝える西国寺は、真言宗の古刹で、室町時代には備後守護山名氏の外護のもと、大いに栄えた。県重文の「西国寺建立施主帳」によると、この寺の再建にあたっては山名一族の外、将軍足利義教や新庄太郎などが巨額の寄付をしている。
 
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西国一の寺、西国寺
 「わらじ」で有名な仁王門は、桃山時代の作で県重文。本堂は鎌倉時代末期の再建で、和様の代表的な建物として国の重要文化財に指定されている。また、同じく国の重要文化財に指定されている三重の塔は、室町時代中期のもので、足利6代将軍義教の寄進とつたえる。
 
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西国寺三重塔
 
高いい寺格を誇った天寧寺
 南北朝時代、尾道の豪商万代氏道円の発願により、臨済宗の傑僧春屋妙葩が開山。春屋妙葩は、有名な夢想国師の高弟で、「五山」の制度を整えた人物で、天寧寺も室町時代には、五山の次に位する「十刹」として全盛を極めた。
 南北朝時代末期には、足利三代将軍義満が訪問。当時の記録によると備後守護であった山名氏は、海上から寺まで「浮橋」を架けて義満を歓待したという。現在の三重の塔は本来五重の塔で、南北朝末期に尾道人道慶が寄進したもの。江戸時代の元禄5年、三重の塔に改修された。なお、同寺は江戸時代に入ると寺運が衰え、曹洞宗に改宗されて今日に至っている。
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天寧寺三重塔(元は五重塔)
 
謎の巨城、青ヶ城 ―福山市郷分町―
 郷分に青ヶ城と呼ばれる中世の山城跡がある。山陽自動車道を広島方面へ向かって行くと、芦田川を渡って直ぐトンネルに入るが、その上の山と言えばご存じの方も多いだろう。
 
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芦田川の河川敷から見た青ヶ城
 
この山に巨大な中世の山城跡が眠っていることが判明したのはつい最近のことだ。以前からこの山に山城が存在したことは知られていたが、記録もなく、たいした遺跡は残っていないと思われていた(その証拠に最近出た県教委の報告には「遺跡不明」と記してある)。
 
ところが、探訪の会で「山城探訪」出版のためにこの山を訪れてみると、そこには福山周辺では屈指の立派な山城の遺跡が存在していた。
 
それも半端な城跡ではない、東西400メートル、南北200メートルに渡って曲輪や空堀の跡が残っていたのだ。
 
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青ヶ城の図面(山城探訪より)
 
 この城について書かれた文献を紐解くと、城主として「皆内出雲守」の名が挙げられている。一説に出雲守はもと神辺町下竹田の「大内山城」の城主で、大内氏の郡代として郷分に青ヶ城を築いたと言う。
 
しかし、その名は一級の歴史史料には一切現れず、その伝えがどこまで真実を伝えたものなのかは分からない。
 
考えられるのは、今まで福山周辺には杉原・宮・渡辺・古志といった豪族の存在が知られていたが、或いは皆内氏も彼らと並ぶ豪族であったのではないか、と言うことである。城の規模も福山有数のものだし、伝承では中津原の茶臼山城、本庄の九日ヶ峰城は皆内氏の出城であったという。
 
歴史の史料で現存するものはほんの僅かである。埋もれてしまった史実や人物はたくさんあるはずなのだ。
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北側から見た青ヶ城

 また、青ヶ城は「大蛇」伝説が残る山でもある。この種の伝説には背後に隠された史実がある場合が多い。この山でどんな歴史が展開されたのか、調べてみたい山城の一つである。
 
備後・山陽の歴史を探訪、研究している会です。
備陽史探訪の会
 

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