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古志清左衛門暗殺の謎
福山地方の代表的山城「大場山城跡」
松永市街地から本郷川に沿って来たに進むと、やがて視界が開け、中世「新庄本郷」と呼ばれた本郷の平野に出る。ここで北を眺めると、左手に、本郷川に覆い被さるような険しい山が見える。これが戦国時代松永一帯を支配した古志氏の居城として有名な大場山城跡である。山頂に登ると松永一帯は一望の下で、曲輪・空堀・土塁・石垣の跡も各所に残り、正に福山を代表する戦国山城のひとつである。
松永本郷、大場山城址
古志氏滅亡の謎
ところで、この大場山城に居城した古志一族に関しては大きな謎がある。それは天正19年【1591】、最後の城主と伝えられる古志清左衛門は、吉田【一説に三原】で毛利氏に殺され、古志氏は滅亡したと言われるが、実はその理由が不明なのである。一般に言われるのは、この事件を有地元盛の策謀によるとする説である。すなわち、本郷から東北の芦田一帯領主であった元盛は、日頃から領地のことで古志氏と争い、毛利氏に清左衛門の「謀反」というあらぬ讒言を行い、元盛の言葉を信じた毛利氏は、清左衛門を吉田に呼び出し、宴席で元盛によって殺させたと言うのだ。
大場山城址、本丸の様子
古志氏の存在を嫌った毛利氏
しかし、最近あらたな史料が発見され、この事件を毛利氏による強引な備後の豪族「取りつぶし」策の一環とみる見方が浮上している。萩で発見された史料によると、古志氏は事前に毛利氏の魔の手を嗅ぎ取り、直接豊臣秀吉に仕えようと運動していたと言うのだ。そして、結果的にこの企ては毛利氏に探知され、逆にその取り潰しの格好な口実にされ、古志氏は滅ぼされてしまったと言う。これは信憑性の高い伝承である。古志氏も元々は毛利氏と同格の国衆で、権力の確立に狂奔する毛利氏にとってはじゃまな存在で、いずれは消される運命にあったのだ。
古志清左衛門の墓石
備後・山陽の歴史を探訪、研究している会です。
備陽史探訪の会
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史跡探訪
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藁江庄を歩く
中世の面影を残した旧藁江荘域の福山市金江町一帯は私の一番好きなフィールドの一つである。
国道二号線を赤坂町で南に折れ、農免道路に入ると、道は次第に上り坂となり、一つの峠を越える。この峠は藁江峠と呼ばれ、難所として知られていた場所である。
峠を越える手前で視線を左に移すと、見る者を圧するように山頂を平らにした高い山が目につく。室町時代、峠の向こうに存在した藁江庄の関門、赤柴山城跡である。
高く聳える赤柴山城址(赤坂側より)
南麓のため池の土手から登って行くと、道は次第に険しさを増し、鉄塔の辺りからは木の根・岩の角につかまりながらの登りとなる。稜線の出丸に出て、更に山頂の本丸を目指すと、次第に視野が開け、急に平らな場所に出る。目を凝らすと周囲に何段にも削平された曲輪の跡が見られ、ここが確かに城塞の跡であることが分かる。
中世、ここに城が築かれた時代、南に広がる藁江庄は、武将たちにとって垂涎の地であった。今でこそ金江町から藤江町にかけての松永湾の東岸は、交通の便の悪い、福山の僻地に当たるが、当時は柳津や藤江の港を擁した瀬戸内海航路の要地で、備後の表玄関に当たる場所であったのだ。
港を監視した機織城址(右手が港の跡)
『兵庫北関入船納帳』という室町期の史料によると、兵庫北関、今の神戸港に入港した船の中には藁江船籍の船が何隻か見られ、当時この地が鞆・尾道と並ぶ瀬戸内の要港として栄えていたことが分かる。
また、他の史料によると、この地には塩浜、つまり、塩田が存在したことが分かっており、この塩田収入も支配者達の争奪の的となっていたのである。
藁江庄の範囲は、北は柳津町、南は尾道市の浦崎町一帯にまで及んでいたようだ。柳津町の西端には庄園の境界を意味する遍坊地(傍示)という地名が残っているし、浦崎の八幡神社は、藁江庄の鎮守であった金江の八幡神社から別れたものである。
藁江庄の鎮守「近居八幡」
庄園の領家は、京都の石清水八幡神社である。同社は、全国の八幡神社の約半数の総本山として知られ、平安時代以来朝野の信仰を集めていた。鎌倉時代の記録によると同神社の庄園は備後に三カ所あって、その一つがこの藁江庄であったのだ。
しかし、室町後期になって世の中が乱れて来ると、庄園の支配をねらって周辺から武家勢力が侵入して来る。最初に入って来たのは、備後守護の山名氏であった。
先に紹介した『兵庫北関入船納帳』によると、藁江籍の船は「山名殿国料船」とあり、このことを示している。だが、応仁の乱が勃発し守護の力が衰えて来ると、今まで鳴りを潜めていた土着の武士たちが実力で庄内に侵入して来た。赤柴山城は、室町初期、藁江氏によって築城されたと伝えるが、この藁江氏などもこうして侵入して来た在地武士の一人なのであろう。
そして、戦国期になると三原市八幡町を本拠とした渋川氏の勢力がこの地にも及び、同氏が毛利氏に属すと共に、一帯は戦国大名毛利氏の領国と化した。渋川氏のことは余り知られていないが、九州探題を世襲した足利氏の一門で、早くから沼隈半島に所領を持ち、備後への土着と共にこの地にも入って来たものである。
藁江城址
付近を散策すると、至るところに中世の面影が残っている。庄内のほぼ中央に建つ金江の八幡神社は藁江庄の鎮守八幡と推定されるが、庄園を見下ろす小高い丘の上に立てられ、かつてこの神社が京都の石清水八幡社の末社として庄園支配の一翼を担っていたことをよく示している。また、八幡社の東の丘には藁江城と呼ばれる一角が残っている。
現地を訪ねて見ると、東から続く尾根続きを空堀によって断ち切り、山頂を平らにならした、まさに中世の山城の跡である。地元では、赤柴山城と同じく藁江氏の城と伝えているが、庄内の中心に位置し、八幡社に隣接することから、庄園の支配を担った代官の居館にふさわしい立地である。
永和4年銘の宝篋印塔(県重文)
近くには中世の宝篋印塔の残る真言宗の古刹もあって、赤柴山城と共に是非訪ねたいポイントのひとつである。(田口義之「備後散策」)
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水呑町の「洗谷」は見所いっぱい
①洗谷貝塚
縄文時代の貝塚遺跡、昭和八年水呑小学校の橘高武夫氏によって発見された。昭和四十六年の発掘調査によって、今から八千年前の縄文早期の土器や弥生式土器が出土し、福山周辺では最大の縄文貝塚であることがわかった。
②芦田川旧堤防
現在の芦田川は昭和初年の大改修工事後の姿で、以前は本庄二股で二つの川に分かれ海に注いでいた。かつての芦田川の堤防はその時の工事によってほとんど消滅したが、洗谷随入に一部残っている。
③鞆軽便鉄道「妙見駅」跡
大正二年に開通した「鞆鉄道」は、時代の波に押されて昭和二十九年に廃止された。五十歳以上の方は「ラッキョウ汽車」として記憶されているが、その跡も旧鉄路にそって点々と残っている。洗谷には「妙見駅」があった。
④お菊茶屋跡
明治元年一月九日、尾道にいた長州軍は福山城目指して進撃を開始した。これがいわゆる幕末の「福山戦争」である。この時、長州軍の一隊は今津から熊野を通って南から福山城を攻撃しようとした。この時、すでに福山藩は戦意なく、長州軍に使者を派遣して戦う意思のないことを伝えた。その使者三浦義建と井上馨(当時今出頑八と偽名を使う)が会見した場所が妙見山下の「お菊茶屋」であった。
⑤松尾神社
創立年月日は不祥だが、宝暦六年(1756)の棟札が残っている。腰から下の病の平癒祈願で知られ、信者の奉納した御神酒徳利の数は数万本と言われ、地元では「日本一」と自慢している。なお、松尾明神は、本来「酒造」の神様である。
⑤宝山
現在の妙見山はかつては「宝山」と呼ばれ、一説にはこれが「福山」の地名の起こりになったという。すなわち、この宝山に対する「福山」が現在の城のある常興寺山で、勝成はこの「福山」を縁起のいい地名として新城下町を「福山」と名づけたと言う。なお、「宝山」は銅山に因む地名と考えられ、現在でも洗谷の奥に古い「銅鉱山」の跡「間歩」が残っている。
⑥妙見神社
妙見山の山頂に建つ神社で「妙見山」の通称はこの神社による。創立年代は不祥だが、以前は縁日に屋台が並ぶほど賑わったという。妙見は「北辰妙見大菩薩」とも称され、北辰すなわち「北斗七星」を神として祭ったもので、古来鉱山と深い関わりがあるといわれている。
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石川王の墓か、芦田町の曽根田白塚古墳
県立府中高校の教諭であった豊元国が「備後における三個の特殊石室墳」(『広島県史跡名勝天然記念物調査報告書』第六集)と題して、福山地方の終末期古墳を報告したのは終戦後間もない昭和26年のことであった。
曽根田白塚の石槨
豊氏は、尾市(新市町常)・猪子(加茂町)・曾根田白塚(芦田町)の3古墳の石室が規模か小さく石の表面がきれいに磨かれていること、通常の横穴式石室と異なって、玄室(石槨)が羨道より小さいこと、などからこれらの古墳は645年の「大化の改新」の後、奈良時代に近い頃築かれた古墳とした。豊氏のこの考えは、今日では定説として認められている。問題は、これらの古墳に葬られた被葬者である。
終末期古墳は、豊氏が「特殊石室墳」と表現したように数が少ない。しかもそのほとんどは奈良県と大阪府の一部に存在し、地方には僅かしか存在しない。「大化の改新」は葬送制度についても新たな法律を制定して古墳の築造に制限を加えた(大化の薄葬令)。古墳を築くことが出来るのは王以上と大臣以上で、地方豪族や庶民は古墳の築造を禁止された。すなわち、豊氏が「特殊石室墳」と表現した尾市や猪子古墳のような「横口式石槨墳」は地方では極めてまれな存在なのである。その特別な古墳がなぜ備後南部に3基も存在するのか…。
一つの考えは、これらの古墳に葬られた人物は、中央の皇族か高級官僚で、何らかの事情で備後に来てこの地で没し、これらの古墳に葬られたとする説である。好都合なことに正史である『日本書紀』に、一つの注目される記述が残っている。
同書、天武天皇の八年(679)の条に、「吉備の大宰石川王が任地で没し、天皇が大いに悲しんだとある。石川王は、天武天皇の側近で壬申の乱で活躍し、吉備太宰という吉備全体の長官に任ぜられていた。吉備を備後・備中・備前の3国に分割したのは石川王ではないかとする説もある。「王」とあるからには皇族で、天皇の側近である。十分終末期の石棺式石室を築く資格がある。
石室の石の継ぎ目
石川王の墓ではないかと考えられているのが、芦田町の曾根田白塚古墳(県史跡)である。この古墳は、芦田川右岸の有地川流域の平野を望む比高100メートルほどの丘陵上に築かれた円墳で、石の表面は綺麗に磨かれ、石と石の継ぎ目には漆喰が残っている。しかも、この古墳の南麓には石川王を祭神とする「国司神社」が建っている。果たしてこの古墳に石川王が眠っているのであろうか…。 |
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謎の十字塚、新市町の尾市古墳
戦争によって途絶えてしまったが、戦前福山には「備後郷土史会」という大きな郷土史研究グループがあった。先覚者得能正通が主催した団体で全盛期には数百人の会員を擁していた。その機関誌『備後史談』を紐解くと、同会の顧問であった早稲田大学西村真次教授の来福の記事が目に付く。現在、7世紀後半に築造された終末期古墳として有名な、新市町の尾市古墳が世間に知られるようになったのは、この西村教授(故人)の調査によってであった。
尾市古墳石郭入口
尾市古墳は、「備後富士」蛇円山から西に伸びた尾根上に築かれた円墳で、内部に十字形に設けられた石室があり、北・東・西の石室が埋葬施設、南側に開いた部分が石室への通路(羨道)となっている。ここではわかり易く石室と書いたが、正確に言えば北・東・西の石室は「石槨」といって棺を納めるだけの施設で、一般的な横穴式石室の「石室」ではない。
新市の駅前から県道を北に進み、「渡上(わたりあがり)」のバス停付近で右折、狭い谷あいを2キロほど登ると「尾市古墳」の案内板がある。現地に行ってみると、この古墳が並の古墳ではないことが素人でもすぐ分かる。3方に設けられた石槨は各面全て綺麗に磨かれた一枚石で、石の継ぎ目には漆喰が残っている。
尾市古墳石槨、漆喰が残っている
実は、この古墳、あの有名な奈良県の高松塚古墳と同時期・同種の古墳なのである。ただし、東西北に3ケ石槨が設けられたものは他に存在しない。この古墳だけである。最初に調査された西村教授は、この古墳をクリス(十字)形石室として、日本にキリスト教が入ってきた戦国時代の、キリスト教関係の宗教施設と考えた。それほど珍しいものなのである。
戦後、西村説は引き継がれなかった。副葬品は発見されていないが、現物を見ると、どう見ても古墳である。しかもこの種の古墳が、福山周辺には他に2基存在することが分かって来た。加茂町の猪子古墳(県史跡)と芦田町の曾根田白塚古墳(県史跡)である。
しかし、猪子・曾根田白塚が1石槨なのに対し、なぜ尾市にだけ十字形に3石槨が築かれたのかは、永遠の謎である。棺を羨道から納めようとすると、北の石槨には簡単に搬入できるが、東西の石槨には無理である。棺を納めた後、天井石を乗せれば別だが…。
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